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村山覚 17年2月11日放送

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Christopher Hsia
ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

カエルのカーミット。
世界で一番有名なカエルのキャラクター。

テレビにデビューしたのは1955年。
後に『セサミ・ストリート』で一世を風靡する
ジム・ヘンソンが生み出した、世界初のマペットだ。

ある日、カーミットはオックスフォード大学に
招待された。アインシュタインやマザー・テレサ、
歴代の大統領など多くの著名人が立った演壇で、
彼はいつも通りに大きな口を開けて語った。

 兄弟もたくさんいたし、
 両親は私を大学に進学させられなかったんだ。
 他のカエルみたいに生物学部に入って
 解剖学を専攻することもできたけど……
 まぁ向いてなかったんだろうね。

もし彼が大学に進んでいたら、
ぬいぐるみの歴史が大きく変わっていただろう。

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村山覚 17年2月11日放送

170211-04
thotfulspot
ぬいぐるみの話 ジム・ヘンソン

世界中から今も愛されている番組『セサミ・ストリート』。
登場するマペットたちの生みの親として知られるのが
ジム・ヘンソンだ。

今から60年以上前、操り人形のマリオネットと、
パペットを組み合わせて「マペット」という言葉を
使いはじめたのも彼である。

ジムは亡くなる前に、2つの遺言をのこした。
1つは、自分のお葬式で黒い喪服を着ないでほしい。
そして、ジャズバンドを入れてほしい。

追悼式当日。ニューヨークの大聖堂にカラフルな
キャラクターたちが集まった。エルモ、ビッグバード、
クッキーモンスター…。そして、番組では一切顔を
見せない人形師たちが、泣いたり、笑ったりしながら、
たくさんの歌を捧げた。

その日、ジムの手紙も読み上げられた。

「みんなと愛し合い、許し合って、いい人生にしよう」
「生きている間にこんな手紙を書いているのは妙な感じがするけど…
 死んじゃった後に書くのは簡単じゃないからね」

いつも愛とユーモアに満ちたジム・ヘンソンが生み出した
マペットたちは、これからもずっと生き続ける。

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村山覚 16年12月10日放送

161210-04

1998年1月8日の雪

その日は雪が降っていた。
1998年1月8日。全国高校サッカー決勝。

試合開始時の気温は0.8℃。湿度は94%。
一面まっ白に染まった国立競技場は
まともなプレーができる状態ではなかった。

前半終わって1-1。ハーフタイム中に
ゴール手前の雪がとりのぞかれた。
結果的に、そのことが試合の流れを変えた。

後半5分。東福岡高校の10番・本山が
ほんの少しだけ緑が見えるペナルティエリアに
ドリブルで切り込む。帝京のディフェンダーが
いなくなったスペースに9番・青柳が飛び込んで
逆転ゴール。

後に本山はこう語った。

「みんな覚えてくれている。
 雪があったおかげだと思います」

まっ白な雪は、
ドラマを色鮮やかにする舞台装置でもある。

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村山覚 16年11月12日放送

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小篠綾子と洋服

大阪・岸和田の呉服屋の長女として育った

小篠綾子は洋服が大好きだった。



ふとんの裏地を縫い合わせて自分のワンピースをつくった。

女学校をサボっては、町で唯一ミシンのある店に通いつめた。



そのことは父の耳にも入る。

呉服屋からしてみれば、洋服屋は商売仇。



「許して」「あかん!」「許して」「あかん!」



父の反対を押し切り、

ミシンや裁断の勉強をするために学校を中退。15歳だった。



およそ20年後。着心地がよくおしゃれな洋服が評判になった

コシノ洋装店に、ある注文が届く。自分が中退した母校から、

制服をつくってほしいという依頼だった。



洋服は時代とともに変わり続けるが、

ぴかぴかの服を着る喜びは、今も昔も変わらない。

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村山覚 16年11月12日放送

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福沢諭吉と洋服

今から144年前。福沢諭吉は大学内に
衣服仕立局という洋服屋をつくった。

当時、洋服は半年分の学費に相当する超高級品。
西洋を学ぶ若者たちのために
国産・低価格の服を仕立てて販売した。

 洋服の便利なるは今更いうに及ばず。

一万円札の肖像で和服のイメージが強い福沢先生。
学問だけじゃなく洋服もすゝめていたんですね。

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村山覚 16年10月8日放送

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Simon Cocks
読書の話 北方謙三

日本を代表するハードボイルド作家、歴史小説家、
そして、数々の文学賞の選考委員でもある北方謙三。
彼が、旅のお供に持っていく本とは…?

 旅行に重い本を持っていって、つまらなかったら腹が立つ。
 だから、絶対面白いと分かっている本を持っていく。
 全部読むわけではなくて、好きなところだけ読むんだけど。

本があるとないとでは人生の豊かさが違ってくると語る北方。
とあるインタビューで、本の読み方を聞かれて、こう答えた。

 男だったら流行とは関係なく、
 本の背からにじみ出るにおいを嗅ぎとって選ぶんだ

電子書籍やネット小説にはない、紙とインクのにおい。
新しい本にも古本にも、それぞれ独特のにおいがある。

いよいよ、読書の秋。本のタイトルや装丁で選ぶジャケ買いもいいが、
“におい”で選んでみると、運命の一冊と出会える…かもしれない。

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村山覚 16年9月10日放送

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Nuwandalice
かつてないをつくる人 田尻智

ポケモンの生みの親、田尻智。
20年以上前のこと。ポケットモンスターの企画をしていた彼は、
ゲームが市民権を得ていないと感じていた。そして同時に、
ゲームの歴史を変えたい、世の中を変えたいと本気で思っていた。

  子供向けのゲームを作るというよりは、
  その辺を歩いているおばちゃんに
  「草むらからこんなモノが」っていう話をして、
  そのおばちゃんが「どれどれ」って興味を
  持つんだったらいけるんじゃないか。

小さなモンスターとゲームクリエイターは、
ゲームの歴史だけではなく、世の中の景色まで変えた。
世界のあちこちで、大人も、子どもも、おばちゃんも、
「どれどれ」とポケモンワールドをのぞきこんでいるのだから。

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村山覚 16年9月10日放送

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kyu3
かつてないをつくる人 石原恒和

ポケモンのプロデューサー、石原恒和。
ゲームソフトだけではなくアニメや映画、グッズなど、
あらゆるポケモンコンテンツをプロデュースしてきた
彼はこう語る。

 ポケモンがこれからも続いていくポイントは
 これまでになかった新しい遊びを生み出すこと

ポケットモンスターの第一作は、少年サトシが
自宅一階のリビングに降りていくところから始まる。
そこでは、映画「スタンド・バイ・ミー」が流れていて、
少年は旅立ちを決意する。
「スタンド・バイ・ミー」も「ポケモン」も
少年が街に飛び出し、経験を積み、友情を育む物語だ。

今年、ポケモンは新しい遊び、というよりも新しい社会現象を
生み出した。20年前に街へと飛び出した少年サトシのように、
人々は街へと繰り出した。

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村山覚 16年8月13日放送

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imarsman
昆虫採集 手塚治虫

自分のペンネームに「虫」という字を入れるほど
昆虫を愛した漫画家、手塚治虫。

子どもの頃から天才的に絵が上手だった手塚少年は
山でつかまえた昆虫や、昆虫館でみた珍しい虫を、
丹念にデッサンした。チョウの翅の赤色を再現するため
指をナイフで切り、絵の具にしたことも。

中学3年の時に「昆蟲つれづれ草」という本を作った。
昆虫エッセイや昆虫イラストは大人顔負け。
その中の一篇を紹介しよう。タイトルは「小さな剣士」。

 こちらを向いてじっとしているさまは、
 まるで一寸法師が鬼に向かっているか、
 小人島の剣士が大男を向こうにまわして
 闘おうとしているか、とにかく面白い。
 よく見るとなかなか立派な服装だ。
 だんだら縞の服に黒いビロードの胸着、
 ハイカラな角帽子をちょこんと載せた頭。

これはハエの一種、メバエの観察記。
手塚が後にうみだすマンガやアニメを彷彿とさせる。

昆虫はよく宝石に例えられるが、マンガの神様にとっては
キャラクターの宝庫でもあった。彼が生涯で描いた700もの
作品のうち、180作品に昆虫が登場するというのだから。

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村山覚 16年7月16日放送

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APOLLO 11 ウォルター・クロンカイト

1969年7月。
人類は「月」を見上げていた。
そこには2人の男とテレビ中継用のカメラを搭載した
月着陸船がいた。

アポロ11号。人類初の月面着陸という
かつてないミッションを遂行するためには
科学技術の発展だけではなく、大衆の支持も不可欠だった。
なぜなら、アポロ計画には莫大な国家予算が
注ぎこまれていたからだ。

アメリカの三大放送局のひとつCBSは
142台のカメラ、1000人近いスタッフを投入し、
32時間に及ぶ特別番組「MAN ON THE MOON」を制作。
名物キャスター、ウォルター・クロンカイトが
月面での一挙手一投足をリアルタイムで伝えた。

クロンカイトの座右の銘は「完璧に至る近道はない」。
関係者ひとり一人の想いの積み重ねが、
38万6200キロという距離をこえた。

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