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村山覚 14年5月25日放送

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カルマンのプロヴァンス的健康法

122歳まで生きたフランス人女性、ジャンヌ・カルマン。

「人類史上最も長生きした人物」として
ギネスブックに載っているだけではなく、
フィンセント・ファン・ゴッホと街の画材店で会ったことがある、
85歳からフェンシングを始めた、
100歳まで自転車に乗っていた、
114歳で映画に出演した、
など、話題に事欠かないアクティブな女性だった。

煙草も晩年まで吸っていたそうで、
禁煙をした理由は「介護してくれる人に
マッチを擦ってもらうのが申し訳ないから」。
なんともチャーミングな理由である。

長寿に憧れ、尊敬の念を抱く人々やマスコミは
彼女の食生活や習慣、つまりは“健康法”を真似しようとした。

ポートワインをよく飲んでいた
チョコレートが大好きだった
オリーブオイルを好み、肌にも塗っていた
毎日、日光浴をしていた
友達とよくおしゃべりをしていた

どれも真似できそうなことばかり。理にもかなっている。
でもカルマンさんは「ポリフェノール」や「骨粗鬆症」、
「アンチエイジング」なんて言葉は一切気にせずに、
毎日をただ陽気に暮らしていたのではないだろうか。

ある日、マスコミに「お肌がきれいですね」と言われた
カルマンさんはこう答えた。

 これまでにできた皺はひとつだけ。
 私は今でもその皺の上に座っているのよ

マダム、それって…おしりのことですか?

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村山覚 14年4月13日放送

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坂本龍馬の道

坂本龍馬と言えば
紋付袴の着物に革靴を履いた写真が有名だ。
この一風変わった姿に龍馬ファンは

反骨精神の表れだ
とっさの時に動きやすいからだ
西洋に強い憧れを抱いていたのだ

などと想像を巡らす。

司馬遼太郎の「竜馬がゆく」に、こんなセリフがある。

 英雄とは自分だけの道を歩く奴のことだ

龍馬は自分だけの靴で、自分だけの道を駆け抜けた。

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村山覚 14年4月13日放送

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アディ・ダスラーの逆転ゴール

1954年、サッカーワールドカップの決勝戦。
西ドイツチームのベンチに、ひとりの靴職人が座っていた。

対戦相手はハンガリー。
4年間無敗、1試合の平均得点は4点以上と
名実ともに世界最強チームだったハンガリーは
予選から準決勝まで順当に勝ち進んだ。
決勝戦も試合開始後わずか8分で2得点リード。

やはりハンガリーか。
そんなムードが流れるスタジアムで、
ボールや選手ではなく「選手の靴」を見つめていたのは
靴職人ただ一人だったかもしれない。

決勝戦のピッチは大雨の影響でぬかるみ、滑りやすくなっていた。
試合前、靴職人は靴底の金具を長くて固いものに付け替えていた。

その後、西ドイツが2点を入れて同点。
歓喜の瞬間、ハンガリーにとっては最悪の瞬間は、
後半の試合終了間際にやってきた。
雨のピッチでも踏ん張りがきく西ドイツチームの靴が
蹴り込んだ逆転ゴール。
この決勝戦の番狂わせは「ベルンの奇跡」と呼ばれている。

靴職人の名は、アディ・ダスラー。
そう、アディダスの創業者である。

ワールドカップ授与の瞬間、西ドイツの監督は
ベンチに座っていたアディを表彰台にひっぱり上げた。
その優勝写真により、アディとアディの靴はますます有名になり、
ヨーロッパ中から注文が殺到したそうだ。

その試合は、ひとりの靴職人の晴れ舞台であると同時に、
サッカーシューズ新時代のキックオフでもあった。

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村山覚 14年4月13日放送

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Schnobby
フィレンツェの子猫・深谷秀隆

1998年。
深谷秀隆は靴職人になるためにイタリアに渡った。
靴の木型と「靴づくりを学びたい」と書いた紙を持って
靴屋を何十軒とまわり、やっと修業先を見つけた。

深谷の作る靴は、今やイタリア最高級。
全て手作りなので週に1足しか作れないが、
40万円以上の値段がつく。

靴工房の名前は「イルミーチョ」。子猫という意味だ。
自由気ままで誰にも媚びない子猫のようでありたいと願う
深谷はこう語る。

 急いでも良いものは作れない。
 徹底的に良い靴を作らないと意味がない。

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村山覚 14年2月23日放送



松尾芭蕉

 霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ面白き

松尾芭蕉41歳。
江戸から故郷の伊賀上野に向かう途中に

詠んだ句である。
深い霧で富士山が見られなかったが

それを「面白い」と表現している。



10年後、芭蕉は再び箱根を越えた。

その時は見事な五月晴れだったようだ。

 目にかかる 時やことさら 五月富士

見える日も、見えない日も、富士山には格別の趣がある。

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村山覚 14年2月23日放送


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實川欣伸(じつかわよしのぶ)

ミスター富士山と呼ばれる登山家がいる。實川欣伸、70歳。
初めて登ったのは42歳の時で、家族5人で登った。
決して早くはない富士山デビューだ。
以来、28年間で1600回以上も登ることになるとは、
本人も家族も予想だにしなかっただろう。實川さんはこう語る。

 富士山に登るということは、富士山の心をつかむことだ。
 その心をつかまえるには富士山に愛されること。
 富士山が嫌だという日には登らないこと。

風や雪が激しく危険を感じた時は、決して無理はせずに下山する。
ミスター富士山は、常に安全を第一に考えてきた。
富士山に畏敬の念を抱き続けているからこそ、
記録を積み重ねていける。

實川さんは一日に2回登ることも少なくない。50歳の時に、
30時間かけて4つの登山道を連続で登り下りする「一筆登山」に成功。
63歳の時には5合目から山頂まで約55時間で8往復!
その時はさすがのミスター富士山も幻覚を見たそうだ。

そんなに何回も登って飽きないのか? とたずねられると、
「富士山に二度と同じ景色はないから」と答える。
富士山と言えばやはり御来光が有名だが、
雲や星空、山の影、夏に見える花火大会など、
四季折々の光景が世界中から訪れる登山家を楽しませる。

ミスター富士山の最終目標は、2230回、
語呂合わせで「ふじさん」回登頂することだ。
あなたも富士山に登ったら、
誰よりも富士山を愛し、富士山に愛された實川さんに
出会えるかもしれない。

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村山覚 14年2月23日放送


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アシュリタ・ファーマン

人は、一番に心を惹かれる。

数多くのギネス記録を持つ
アシュリタ・ファーマンもその一人。
来日中に新幹線の車窓から見えた
“日本一の山” の美しさに感激し、登頂を決意した。

しかしギネスコレクターのファーマンのこと。
普通の登頂では世界記録にならないため、
ホッピングで登ることにした。

踏み板の下にバネが付いていて、
取っ手を持ってぴょんぴょんと跳ぶあのホッピングで、
標高3,776mへ。

富士山の勇姿には、
人の冒険心をかき立てる不思議な力がある。

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村山覚 13年12月29日放送


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鬼が笑った話 斉藤仁

2つの金メダルを持つ柔道家・斉藤仁は、
引退後にコーチとなり、数多くの金メダリストを育てた。
厳しい練習内容から鬼コーチと呼ばれた。

斉藤の厳しさを示すエピソードとしてよく知られるのは
北京五輪での石井慧選手のインタビュー。

「オリンピックのプレッシャーなんて、
 斉藤先生のプレッシャーに比べたら屁のつっばりにもなりません」

これを聞いた鬼コーチ斉藤は怒っただろうか、
それとも、笑っただろうか。

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村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 初代若乃花

昭和33年。体重105キロの小柄な力士が横綱に昇進した。
初代・若乃花。
熱のこもった取り組みから「土俵の鬼」と呼ばれた男である。

同時期に横綱であった栃錦といくつもの好勝負を演じたため
「栃若時代」という言葉もうまれた。

引退会見で「横綱の豪快な上手投げや呼び戻しが見られないのは
本当に寂しい」と言われて、こう答えた。

 『まぁそのうちにまた出てきますよ、そういう人が。』

30年後、甥っ子である貴花田が初優勝。
理事長としてトロフィーを渡すこととなった。
少し険しい顔をして涙をこらえていた土俵の鬼は、
土俵を降りてから静かに微笑んだ。

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村山覚 13年12月29日放送



鬼が笑った話 パガニーニ

クラシック音楽史に
燦然と名を残すヴァイオリニストといえば、
ニコロ・パガニーニ。

今からおよそ200年前に、
そのずば抜けた演奏技術はヨーロッパ中の話題となり
「ヴァイオリンの鬼神」「悪魔に魂を売り渡した男」
などと言われていた。

ある国で演奏した際、国王がアンコール演奏を求めた。
しかし『パガニーニは二度繰り返さない』と断ったという。
自分の演奏を唯一無二だと自負していたパガニーニは、
作品が楽譜として出版されることも拒否し続けた。

またある時、求婚してきた女性に対して
『私のヴァイオリンをいつでもただで聴くつもりだな?』
と言ったというエピソードも残っている。

こんな鬼のような男が、表舞台から姿を消した時期がある。
ギターを弾く女性と同棲をして4年ほど姿を消していたのだ。
パガニーニが作曲したヴァイオリンとギターのための
二重奏曲からは、愛に溢れた生活が想像できる。

ヴァイオリンの鬼も、
愛する女性の前では屈託なく笑っていたのだろうか。

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