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村山覚 13年9月22日放送


Topgun1997
ナンバー2の男 ステイゴールド

1998年、春の天皇賞2着。
宝塚記念2着。
秋の天皇賞2着。

その馬の名は、ステイゴールド。
ビッグレースでのナンバー2が続いたため
「ゴールドなのにシルバーコレクター」と揶揄された。

彼が2着になるたびファンは「またか」と嘆き、
同時に喜んでいるようにも見えた。
もどかしい成績も含めて愛された男。

今、彼の子どもたちは大活躍している。
彼が何度挑んでも勝てなかったレースを勝つこともある。
しかし2着になっても「さすがステイゴールドの子」と
ファンは嬉しそうに話すのだ。

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村山覚 13年9月22日放送


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ナンバー2の男 宗猛

宗茂と宗猛。双子のランナー”宗兄弟”は
ニッポンの男子マラソンを牽引した。

ストライド走法で天才肌の兄と、
ピッチ走法で努力家の弟。
見た目以外は、かなり異なるタイプの
ランナーだったそうだ。

初マラソンで優勝したのは兄。
弟の猛は18秒差で2位だった。

兄弟でワンツーフィニッシュしたレースは
その後3回あったが、すべて兄が優勝。

後のインタビューで弟、猛は
「兄貴に負けて2位ならいいかなと思っていました」
と語った。

双子の弟、持って生まれたナンバー2としての
美学だろうか。

しかし自己最高記録は弟のほうが速かったから、
兄弟の真剣勝負を見たかったような気もする。

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村山覚 13年8月11日放送



帰りたくなる話 室生犀星

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの」

これは、室生犀星の詩の有名な一節。

彼のペンネームは、金沢を流れる犀川の西で
生まれ育ったことに由来している。
冒頭の詩のとおり、ふるさとと疎遠だった犀星は
犀川についてこんな詩をのこしている。

 「うつくしき川は流れたり そのほとりに我は住みぬ
 春は春、なつはなつの 花つける堤に座りて
 こまやけき本のなさけと愛とを知りぬ
 いまもその川ながれ 美しき微風ととも 蒼き波たたへたり」

あなたのふるさとには、
どんな花が咲き、どんな風が吹きますか?

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村山覚 13年8月11日放送



帰りたくなる話 野口英世

 「志を得ざれば 再び此地を踏まず」

野口英世が上京する時に、実家の柱に刻んだ言葉。

東京からニューヨークに渡り研究に没頭していた彼に、
日本の母から一通の手紙が届く。

「はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。ねてもねむられません」

これを読んだ野口英世は、15年ぶりに故郷の土を踏んだ。

母はどのような表情で、息子を出迎えたのだろうか。

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村山覚 13年8月11日放送



帰りたくなる話 少女ドロシー

アメリカ映画協会・AFIが選出した
名セリフベスト100というランキングがある。
第4位は、こんなセリフ。

 「トト、ここはカンザスじゃないみたいよ」

映画『オズの魔法使い』。
主人公の女の子ドロシーが、竜巻に飛ばされた後に
犬のトトに言ったセリフだ。

「ここはカンザスじゃない(We’re not in Kansas anymore)」
という言葉は慣用句になっていて、
他の映画でもしばしば引用される。
知らない街でびっくりした時や、
状況ががらりと変わった時に使う。

『オズの魔法使い』のエンディング、
カンザスに帰れることになったドロシーが言うセリフは
名セリフランキングで23位に選ばれている。

 「やっぱりおうちが一番だわ」

あなたにとって、一番の場所はどこですか?

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村山覚 13年7月27日放送



眠りの話 ダリの見た夢

シュールレアリスムの画家として知られる
サルバドール・ダリは、
うたた寝の仕方も一風変わっていた。
それは、指の間にスプーンを持ち、
真下に金属の皿を置いて寝るという方法。

眠りに落ちたダリの指からするりと落ちるスプーン。
高らかに響く金属音が、ダリを現実に呼び戻す。
うたた寝で見た夢の世界を
キャンバスに描きうつしたこともあったのだろうか。

奇人変人的なエピソードを数多く残しているダリだが、
緻密な計算に基づいた、したたかな男だったのかもしれない。

ダリはこんな言葉をのこしている。

 「天才になるには、天才のふりをすればいい。」

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村山覚 13年7月27日放送



眠りの話 昼寝るチャーチル

イギリスの政治家、ウィンストン・チャーチル。
彼は当時としては珍しく、90歳まで生きた。

ある軍人が
「私は酒を飲まないし、葉巻も吸わない。よく眠る。
これが100%健康でいられる理由だ」
と言ったのに対し、チャーチルはこう返した。
「私はよく飲むし、次々に葉巻をふかす。 少ししか寝ない。
これが200%健康でいられる理由だ」

「少ししか寝ない」とうそぶいたチャーチルだが、実は毎日昼寝をしていた。
戦争中の司令室のすぐ横にはベッドルームがあったし、
国会議事堂の中にも昼寝用ベッドがあったそうだ。
チャーチルは昼寝でリフレッシュし、そのぶん深夜遅くまで働いた。

ノンフィクションの作家としてノーベル文学賞も受賞している
チャーチルらしい言葉を紹介しよう。

「私には元気づけてくれる夢など必要なかった。
 事実は、夢にまさるのである」

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村山覚 13年1月13日放送



ウォルト・ディズニーの20歳

第一次大戦中、
若きウォルト・ディズニーはフランスにいた。
愛国心の強かったウォルト青年は
通っていた高校を辞めて軍隊に志願したのだ。

終戦後、アメリカに戻ったウォルトは
新聞や広告のためのイラストレーションを描いて生計を立てた。

その後アニメーションを知ると、その可能性に魅せられて
短編映画の製作を始めたのが20歳の頃。
そして、ミッキーマウスが生まれることになる。

後にウォルトは言った。
「何かをやりたいのに、選んでばかりの人はもったいない。
 チャンスがあるうちに、中に入ってみる。
 そうすれば、そこから何かが生まれるかもしれない」

迷っていないで、まずは飛び込んでみよう。
それが20歳の特権なのだから。

明日は成人の日。

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村山覚 13年1月13日放送



藤子不二雄の20歳

1944年、富山県の小学校に一人の転校生がやってきた。
少年の名前は「あびこもとお」。趣味は漫画。
すぐに友達ができた。同じく漫画が大好きな「ふじもとひろし」。

二人は漫画を描きまくった。
二人で描いた4コマ漫画が新聞に掲載されたこともあった。
しかし高校を卒業するとき、
漫画家になるという夢をいちど諦めた。

安孫子は富山新聞社に、藤本はお菓子メーカーに就職。
安孫子は新聞社でイラストを描いたり、インタビューをしたり、
充実した日々を送っていた。
一方、藤本はすぐに会社を辞めた。
漫画を描いては出版社に投稿する日々。

ある日、安孫子のところに藤本が来て言った。
「一緒に東京へ出よう。」
後に日本を代表する漫画家となる「藤子不二雄」は
夜行列車に揺られて上京した。二人とも20歳だった。

藤子・F・不二雄は、自叙伝でこう語っている。
「面白いマンガを描きたいと思いつづけています。
 夢に終わるかもしれないけれど、
 その夢が僕らを支えているのです」

20歳の夢は、ずっとあなたを支えてくれる。

明日は成人の日。

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村山覚 13年1月13日放送



上原ひろみの20歳

ジャズピアニスト上原ひろみは、
20歳まで大学の法学部で学びながら日本で暮らしていた。
彼女はインタビューでこう語っている。

「アメリカに行きたい!という気持ちがマックスになるまで
 待とうと思ったんです。そういうタイミングで行かないと、
 向こうの音楽学校へ入っても、埋もれてしまうんじゃないか、
 必要なことが吸収できないんじゃないか、と」

20歳で渡米したひろみは、
バークリー音楽大学を首席で卒業。
今や世界中のジャズクラブやコンサートホールで演奏をしている。

「自分自身がまだ体験したことがない
ドキドキするような音楽を追い求めている。
私が私にびっくりするくらい新鮮な音楽を作り続けていきたい」

20歳には、自分も驚くほどの可能性がある。

明日は成人の日。

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