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松岡康 13年9月15日放送


vinirusso
老いても踊る

舞踏家大野一雄。
103歳で亡くなるまで、現役を貫いた。

20代でダンスを志す。
32才で太平洋戦争に出征。
やっと帰国できたのが40才。
デビューは、43才の時だった。

生と死の意味にこだわる彼のダンスは、
技術や形(かた)にとらわれない、魂の表現だった。

90歳を越えても、彼は踊った。
足が不自由になっても、車いすに座り、手だけで踊った。
世界の人々が、老人のダンスに感動した。

大野はいう。
魂が先行して、最小限の肉体がついていく。
そういう踊りをやらなくてはいけない。

老いた身体にしかできない、ダンスだった。

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松岡康 13年9月15日放送



老いを描く

105歳まで生涯現役を貫いた日本画家、小倉遊亀。

彼女が70歳を過ぎてから
盛んに取り組んだモチーフが梅だった。

人間は年老いて
老醜のみじめさを味わわねばならないが、
梅は年老いて美にますます深みを増す。

遊亀の描く梅は、歳をとるたびに
よりつややかに、より美しくなっていった。

彼女は語る。

老いて輝く。
60代までは修行。70代でデビュー。

女として、画家として。
輝き続けた晩年だった。

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松岡康 13年8月17日放送


plindberg
アスプルンド

20世紀以降に作られた建築作品のなかで
最も早く世界遺産に登録されたもの。
それは、教会でもコンサートホールでもなく「墓地」だった。

スウェーデンの建築家エリック・グンナール・アスプルンドが
25年もの歳月をかけて完成させた「森の墓地」。
ストックホルムの丘陵地帯の地形をそのまま生かし、
礼拝堂や火葬場も森に溶け込むように建てられた。

静かで、雄大。それでいて機能的。

礼拝堂の門にはアスプルンドの言葉が記されている。

 今日はあなた、明日は私。

アスプルンドは設計当時、息子を病気でなくしていた。
死からは逃れることができない。
そんな運命を受け入れて生まれたデザインは、
優しさに満ちている。

アスプルンドは、今も息子と共にこの墓地に眠っている。

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松岡康 13年8月17日放送



シャー・ジャハーン

墓は時に愛のシンボルとなることがある。

イスラム建築の傑作、タージマハル。
『真珠の涙』とも呼ばれるその美しい建築は、
ムガル帝国5代目のシャー・ジャハーンが
最愛の妃ムムターズ・マハルの死を悲しんで建てた墓だと言われている。

美しさを支えているのは、その完璧なまでのシンメトリー。
門や塔の位置はもちろん、細かい装飾に至るまで
全てが線対称に作られている。
まるで、永遠の愛を表現しているかのように。

そんなタージマハルに、
一カ所だけシンメトリーではないところがある。
マハルの棺の横におかれたシャー・ジャハーンの棺だ。

彼の死後置かれたこの棺によって、
完全なシンメトリーは崩れた。

愛するマハルのすぐ隣に眠るシャージャハーンは、
何を思って、眠っているのだろうか。

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松岡康 13年7月21日放送



沖縄と建築家

沖縄県糸満市摩文仁の丘。

青い海と空を背に、
どっしりとした沖縄赤瓦の屋根が
静かに浮いている。

ここは、沖縄戦没者墓苑。

20万人超といわれる沖縄戦犠牲者のうち
18万人余の遺骨が
琉球墳墓風の納骨堂に納められている。

設計したのは、
昭和近代建築の巨匠である谷口吉郎。

墓苑を構成する素材は、すべて地元沖縄産。
谷口は平和の礎となった人たちを温かくいだくように
納骨堂を片仮名の「コ」の字の形に設計した。

1979年2月2日に完成。
そのわずか1日後の2月3日、
戦没者墓苑の完成を見届けるように
谷口はこの世を去った。

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松岡康 13年6月16日放送



植物学の父

日本の植物学の父・牧野富太郎。
彼はまた、多くの子をもつ
大家族の父でもあった。

妻寿衛子(すえこ)との間に
もうけた子供はなんと13人。
研究に没頭する富太郎を
経済的に支えながら子供を育てるため、
寿衛子は料亭をはじめる。
店は大繁盛。
寿衛子は、研究室と書斎を備えた家を建て、
子供たちを立派に育て上げた。

寿衛子が亡くなった年、
富太郎は感謝の意をこめ、
発見した新種の笹にスエコザサと名付ける。

牧野富太郎が植物学の父なら
寿衛子はその業績を支えた母だといえる。

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松岡康 13年6月16日放送



タワーの父

1923年。関東大震災で
多くの建物が被害をうけるなか、
日本興業銀行はほぼ無傷だった。
設計者は耐震構造の父と呼ばれる内藤多仲。

地震国日本において、
独自の構造理論を打ち立て実践した内藤は
タワーの父としても知られている。

名古屋テレビ塔、通天閣、
別府テレビ塔、さっぽろテレビ塔、
東京タワー、博多ポートタワー。

内藤が設計したこれらのタワーは、
タワー6兄弟と呼ばれ、
今も日本各地の人々に愛されている。

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松岡康 13年5月12日放送


FlySi
ロボットは母親を愛せるか

巨匠スタンリー・キューブリックが構想を練り、
彼の死後スティーブン・スピルバーグによって
映像化された映画「A.I.」。

主人公は、人間の母親を愛するように
プログラムされた少年のロボット、デイビッドだ。
彼は製造されてすぐに、モニカという女性のもとに送られる。
彼女には不治の病を持つ息子がいたが、
冷凍睡眠で眠り続けていた。

純粋にモニカを愛するデイビッド。
モニカも同様に彼を愛した。
ところがある日、冷凍睡眠をしていた息子が
奇跡的にめざめ、デイビッドは捨てられてしまう。

人間じゃないから、モニカから愛されない。
そう考えたデイビッドは、人間になる方法をさがして旅にでる。
結局、そんな方法は見つからなかった。

ある日、自分と同じタイプのロボットが
大量生産されている場面に出くわしたデイビッドは絶望し、
「ママ、ごめんなさい...」と言って、海に身を投げる。

ロボットでありながら
人間以上に純粋で真っすぐな
母への愛がそこにはあった。

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松岡康 13年5月12日放送



母の心配

ヒッピー文化全盛の1973年。
15歳の少年ウィリアムは
ローリングストーン誌のライターに抜擢され、
人気バンドのツアーに同行する。

キャメロン・クロウ監督が
自らの少年時代をモデルした青春映画
「あの頃ペニー・レインと」。

厳格な母は、
毎日2回電話することを約束に、
ウィリアムを送りだすが、
テストの心配。単位の心配。進路の心配。
電話するたび小言を言う母に
うんざりしたウィリアムは、次第に連絡をしなくなる。

久しぶりにつながった電話。
涙を流すほど心配した母が
ウィリアムに伝えたのは、たった一言。
「ドラッグだけは、やっちゃダメ」

母が心配できることなんて
いつの時代も同じもの。

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松岡康 13年4月20日放送



東京生まれの上京

 恋人よ 僕は旅立つ 東へと向かう列車で

このフレーズではじまる「木綿のハンカチーフ」。
松本隆が作詞し
太田裕美が歌うこの曲は、
1972年に発売され大ヒットとなった。

東京の都会的な空気に触れ、変わっていく男。
故郷にいたころのように、彼に変わらないでいてほしいと願う女。
松本は、上京にまつわる別れのさみしさを見事に描ききった。

実は、松本には上京経験などない。
東京のど真ん中、港区青山生まれ。
歌詞にはこうある。

 都会の絵の具に 染まらないで帰って

東京という大都会をいちばんよく知る松本。
彼が言う「都会の絵の具」とは、
どんな色だったのだろう。

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