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石橋涼子 18年4月29日放送

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わたしのはなし ヘルマン・ヘッセと内面性

わたしとは、なんだろう。

詩人でありノーベル文学賞作家でもある
ヘルマン・ヘッセ。
苦悩の多い人生からか、
わたしとは何か、を問いかけるような
文学作品を多く残している。

ヘッセは繊細で静かな文章で、
青春の悩みや人間らしい弱さを描いたが、
それはときに、悩める読者の希望となった。

書物というタイトルの詩で、ヘッセはこう語る。

 君自身の中に、
 君が必要とするすべてはある。
 「太陽」も「星」も「月」もある。
 君の求める光は、
 君自身の内にあるのだ。

ヘッセの元には、世界中の悩める読者から
何千通もの手紙が届いた。
彼は、仕事の時間を割いて、
ひとつひとつに返事を書き続けたという。

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石橋涼子 18年4月29日放送

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nhojjohn58
わたしのはなし リトル・ミイの顔

わたしとは、なんだろう。

ムーミン谷に住む小さな女の子、ミイ。
怒りっぽくて口が悪いけれど、
彼女は、自分というものを知っている。

あるとき、自分に自信が持てなくて、
とうとう姿が消えてしまった仲間に
ミイはぴしゃりとこう言った。

 それがあんたのわるいとこよ。
 たたかうってことをおぼえないうちは、
 あんたには自分の顔はもてません。

小さなミイは、
まったくもって彼女らしい顔で、よく笑う。

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石橋涼子 18年3月25日放送

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呼吸のはなし 勝海舟と呼吸

勝海舟。
ご存知の通り、江戸無血開城の立役者のひとりだ。

官軍の江戸総攻撃が目前に迫るなかで
最後の将軍徳川慶喜に幕府の幕引きをまかされた。

様々なプレッシャーのもと、
時代の空気を読み、気迫を持って、
和平交渉を成立させた勝海舟の気苦労はいかばかりだったろうか。

勝海舟の晩年の談話を集めた
氷川清話(ひかわせいわ)には、
こんな言葉が収録されている。

 ところで気合いとか呼吸とかいっても、
 口ではいわれないが、
 およそ世間の事には自ら(おのずから)
 順潮(じゅんちょう)と逆潮(ぎゃくちょう)とがある。

 しかしこの呼吸が、いわゆる活学問(いきがくもん)で、
 とても書物や口先の理屈ではわからない

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石橋涼子 18年3月25日放送

180325-04

呼吸のはなし 岡本太郎の深呼吸

0年代、岡本太郎が、とある青年誌で
まことに岡本太郎らしい人生相談を
していたのはご存知だろうか。

健康について聞かれた回では、こんな言葉を残している。

 健康法なんか考えないことがいちばんの健康法だと思っている

もちろん、逆説をとなえるだけでは終わらないのが、岡本太郎だ。
続きは、こう。

 思いっきり新鮮な朝の空気を吸い込むと、
 青空が体に染み込んで、
 一日のエネルギーが沸いてくる喜びを感じる。
 これが僕の生きがいだね。

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石橋涼子 18年2月25日放送

180225-03
Querfeld GesmbH
喫茶の話 ツヴァイクとウィーンのカフェ

2011年に、ユネスコの無形文化遺産に登録された
ウィーンのカフェ文化が花開いたのは、19世紀後半だ。

その頃のカフェには、政治家から、音楽家、
演劇家、芸術家、文学者など、様々な種類の人が集った。
逆に言えば、集う客の種類によって、
その店の個性が育まれたとも考えられる。

例えば、
建築家アドルフ・ロースが設計したカフェ・ムゼウムは
画家のクリムトを始めとする芸術家や建築家たちが集まり、
新しい時代のデザインについて語り合った。
ブルク劇場のそばにあるカフェ・ラントマンは、
役者や政治家が多く集い、
エレガントな雰囲気を売りにした。

当時のウィーンで裕福なユダヤ人家庭に生まれ、
後に亡命せざるを得なくなった作家のツヴァイクは
後年、若かりし頃のウィーンの文化を回想して、こう語る。

 あらゆる新しいものに対する最良の教養の場は、
 常にカフェであった。

コーヒーと共に、多くを学べる場でもあった
19世紀末のウィーンのカフェからは、
ウィーン分離派や合理主義、青春ウィーン派など
多くの文化が巣立った。

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石橋涼子 18年2月25日放送

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nicocarver
喫茶の話 トルコ・コーヒーの価値

水から煮たてたコーヒーの、上澄みだけを飲む
トルコ・コーヒーを、ご存知だろうか。

トルコで一般的な飲み物と言えばチャイだが、
おもてなしの際にふるまわれるのは、トルコ・コーヒーだ。
美味しいトルコ・コーヒーは、
つくるのに手間と時間がかかるのだ。

トルコには、こんな古いことわざがある。

 一杯のコーヒーには40年の思い出がある。

それだけの想いを込めて淹れているとも、
その味はずっと記憶に残るとも、解釈できる。

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石橋涼子 18年1月28日放送

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ayumew
鍋の話 大人のためのどぜう鍋

江戸時代から庶民に親しまれてきた鍋といえば、
どじょう鍋がある。
うなぎ一匹、どじょう一匹
という古い言葉があるように、どじょうの小さなあの体には
うなぎ一匹に匹敵する栄養が詰まっているらしい。

鍋料理として確立したのは、1800年代、
11代将軍徳川家斉のころだ。
どじょうを捌いて煮込み、卵でとじたものが柳川鍋。
どじょうを酒に漬けて酔わせてからまるごと煮込むのが、
どじょう鍋。

どじょう鍋を考案したのは、浅草にある
駒形どぜう(読みはどじょう)の店主・越後屋助七で、
彼は「ど、じ、よ、う」の4文字が正しい仮名遣いのところ
「ど、ぜ、う」の3文字にしたことでも知られている。
4文字は縁起が悪いから、というのが理由だ。
そのおかげか店は繁盛し、他の店ものれんや看板に
「どぜう」と書くようになったという。

作家の池波正太郎は、どぜう鍋を食べに
数えきれないほど通ったと言うが、
初めて食べたときのことはこう振り返っている。

 何か一人前の大人になったようで、いい気分だったのである

初めてだと戸惑う人も多い見た目のどぜう鍋だが、
大人の料理だと考えると、一層魅力的に見える。

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石橋涼子 18年1月28日放送

180128-04
cyclonebill
鍋の話 小津安二郎のカレーすき焼き

名監督小津安二郎は、食べることが大好きで、
自ら料理もした。時折、撮影後のスタッフに
「カレーすき焼き」なるものを振る舞ったという。

とある女優は
こんなにおいしいものはない
と言ったといい、
とある俳優は
誰がカレーをいれたんだ
と言って怒ったという。

美味しさの真偽のほどは定かではないが、
ぜひ味見させて頂きたい鍋ではないだろうか。

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石橋涼子 17年12月31日放送

171231-01

大晦日の話し 正岡子規の大晦日の一句

明治28年の今日、
正岡子規は根岸の家で療養中だった。
この年の春、日清戦争に従軍記者として赴くも、
帰りの船で喀血し、一時重体に陥った身だ。

しかし大晦日のこの日は、かねての約束通り
松山から夏目漱石が訪れ、高浜虚子もやってきたのだった。
まだ確たる地位も名声もない20代の若者が集まり
温かいこたつを囲んだ賑やかな年の瀬。
子規は、健康や将来への不安を一時忘れたに違いない。
この日に詠んだのは、飾らない歓びそのままの一句だ。

 漱石が来て 虚子が来て 大三十日(おおみそか)

今日は大晦日。
2017年最後の日。

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石橋涼子 17年12月31日放送

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大晦日の話し 大晦日

江戸時代では、大晦日と言えば、
ツケ払いをした買い物の支払いを清算する日でもあった。

井原西鶴の書いた『世間胸算用(せけんむねさんよう)』は、
大晦日に借金取りと奮闘する町人たちの物語だ。
居留守や仮病、ケンカなど、あらゆる手段で商人から逃げようとする
人間臭い駆け引きが、ユーモアたっぷりに描写され
西鶴晩年の傑作とも言われている。

西鶴は、大晦日にまつわるこんな句も残している

 大晦日 定めなき世の 定めかな

当時は徳川綱吉の治世で変化の慌ただしい世の中。
それでも大晦日は定め通りにやってくる。と、解釈することもできるが、
それでも大晦日の借金取りだけはちゃんとやってくる
と解釈することもできる。
人気者の西鶴先生も、町人と同じ苦労をしていたと考えれば
親しみも倍増するというものだ。

今日は大晦日。
2017年最後の日。

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