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礒部建多 18年12月9日放送

181208-06
alanmayers
南国の雪景色

常夏の島にも、雪は降る。

南国の楽園として知られるハワイ島。
標高4205mと富士山よりも高いマウナ・ケアの
山頂付近は雪に覆われることがある。
頂上には、氷河時代の名残である永久凍土もあると言う。

冬に雪が降るのはもちろんだが、
2015年の7月には、夏にも関わらず暴風雪に見舞われた。

気象センターさえ予想できないマウナ・ケアの天気を、
現地の人々は神の仕業だと言う。

その山は、神聖な場所として崇められており、
「ポリアフ」と言う
雪の女神が住んでいると伝えられている。

ハワイ神話に登場する女神の中で、
「最も美しい」と称されるポリアフ。

そんな女神が山肌に施す雪化粧は、
神秘的で、息をのむほどに美しい。

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礒部建多 18年12月9日放送

181208-07
Aozora-UmiDaichi-(青空海大地)
雪の知らせ

雪の結晶の形は、
35種類に分類されると言う。
しかし分子レベルで見れば、同じ結晶はひとつもない。

中谷宇吉郎は、その美しさに魅せられ、
雪について研究を重ねた物理学者だ。

上空の湿度や温度、
様々な条件によって、結晶の形は少しずつ変わる。
つまり、その形を見れば、
気象状態などがつぶさにわかると言う。

3000枚もの結晶の写真を収集してきた中谷は、
こんな言葉を残している。

「雪は天から送られてきた手紙である。」

静かに降り注ぐ雪も、
中谷にとっては雄弁であったのだ。

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礒部建多 18年10月14日放送

181014-07

浮世絵を育てた男

菱川師宣、葛飾北斎、歌川広重。
浮世絵を、日本を代表する芸術へ押し上げたのは、
彼らのような絵師の功績だけではない。

美術商だった林忠正。
ジャポニスムに沸くパリを拠点に、
世界中を周り、日本美術を広めた。

当時はまだ価値も知られていなかった、
数多くの浮世絵作品を海外に流出させ、
巨額の富を得た為に、国内で反感を買った。
売国奴と呼ばれたこともあった。

しかし海外からの評価が上がったことで、
国内でも一級の芸術品として、
広く認識されるようになったのだ。

絵師たちが生んだ作品を、林が名作へと育て上げた。
そう言っても過言ではない。

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礒部建多 18年10月14日放送

181014-08

葛飾北斎の発想

色鮮やかで、描写も構図も自由な浮世絵。

葛飾北斎は、誰よりも枠にとらわれず、
見る人を驚かせた。

徳川家斉に呼ばれ、
御前で即興の絵を書いていた時のこと。

細長い紙に、刷毛で藍色を塗ると、
籠に入れてきた鶏の足に朱色を塗って、
紙の上を歩かせた。
「これはこれ竜田川の景色なり」と言い残し、
その場を去ったという。

一つ一つの足跡が、
まるで清流に流れる紅葉のように見えたのだ。

「絵は筆で書く」、
そんな常識すらも超越する創意工夫が、
庶民だけでなく、時の将軍さえも驚嘆させた。

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礒部建多 18年7月29日放送

180729-07
kazutan3@YCC
伝説の公園

かながわ景勝50選にも選ばれる、稲村ガ崎公園。
海際の崖の上にあり、そこからの景色は、
江ノ島と富士山を一望できることでも有名である。
晩夏の朝陽に染め上げられた赤富士は、
息を飲むほどに美しい。

またここは、
鎌倉幕府倒幕の起点となった場所としても有名である。
四方を山と海に囲まれた、天然の要塞であった鎌倉を、
新田義貞はこの場所から攻め入ったのだ。

伝説によれば、
荒々しく波が打ち寄せていた岸に、
義貞が太刀を海に投げ入れたことで、
たちまち潮が引いたため、
一気に浜から進軍できたと言われている。

絶景を眺めながら、歴史について想いを巡らせる。
それは、最も鎌倉らしい、
贅沢な時間の過ごし方である。

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礒部建多 18年7月29日放送

180729-08
majiedqasem
水中に沈む公園

公園と言えば、普通は地上にあるもののはず。
しかし、オーストリアのとある公園は、
夏場になると、水中に沈んでしまうのだ。

それはグリーンレイクと呼ばれる、
雪解け水が流れ込むことで発生する、
夏季だけの水中公園である。

ベンチも、遊歩道も、木々も、公園の姿そのままに沈んでいる。
その光景は幻想的であり、
草木の緑が陽の光を反射して、
エメラルドグリーンの輝きを放つ。

水深は深いところで12mにも達し、
水温は10度にも達しないほど冷たい。
ダイバーたちはウェットスーツなどの防寒をし、
水中公園で憩いのひと時を過ごす。

日本の猛暑に疲れたら、
こんな避暑地に旅をするのはどうだろう。

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礒部建多 18年5月20日放送

180520-05

ジーンズで訴えた男

今日はジーンズの誕生日。

労働者の作業着として生まれたジーンズは、
1950年以降、強いメッセージ性を持つファッションへと変化する。
音楽の力によって。

1969年のウッドストック。
伝説と謳われた、愛と平和の音楽の祭典。

最終日に、トリとしてステージに現れたジミ・ヘンドリックスは、
美しいブルーのフレアジーンズ姿で、国歌「星条旗」を演奏し始めた。

最初は聞き慣れたフレーズが続いたが、
突然の変化に観客たちは驚いた。

まるで爆撃機の空襲音のようなノイズ。
人々の悲鳴のような弦の高鳴り。

激しく歪みながら鳴り続けるその狂気的な旋律は、
当時のベトナム戦争への痛烈な批判を表現していた。
そして、彼は観客へこう言い放ったと言う。

「愛国心を持つなら地球に持て。魂を国家に管理させるな。」

ロック史に残る、その圧倒的なステージ上の姿が、
ジーンズをも「反骨精神の象徴」へと変えていったのだ。

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礒部建多 18年5月20日放送

180520-08

日本でジーンズを初めて履いた男

今日はジーンズの誕生日。

日本で初めてジーンズを履いたのは、白洲次郎だと言われている。
戦後のGHQに「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた男。

白州は、自分の流儀を何よりも大切にしていた。

講和条約締結へ、サンフランシスコに向う機内でのこと。
吉田茂や側近たちが正装に身を包んでいたのに関わらず、
白州だけはTシャツとジーパン姿で寛いでいた。

狭い機内で、一番機能的な服を選んだのだと言う。
例え誰の前でも、何を言われようとも、
自分の軸を曲げることは絶対にないのだ。

「人様にしかられたくらいで引込むような心臓は、持ち合わせがない。」

これほどに芯の強い男が、果たして今の日本にもいるだろうか。

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礒部建多 18年3月11日放送

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瓜生岩子 日本のナイチンゲール

福島に、
「日本のナイチンゲール」と
呼ばれた女性がいた。
日本の社会福祉の礎を
築いたと言われる瓜生岩子だ。

戊辰戦争によって、
戦火が岩松城下まで及んでいた時、
岩子は周囲の反対を押し切り、戦地へと赴き、
負傷者の救助に当たった。

味方だけではない。
敵の負傷者も分け隔てなく看護した。
その行為を敵軍の隊長に問われた岩子は、
こう答えたと言う。

 「怪我の手当てをするのに誰の許可もいりませぬ。」

情けのすべてを、他人の為に捧げる。
その精神は、今も福島の人々の中に根付いている。

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礒部建多 18年3月11日放送

180311-08

淡谷のり子 じょっぱりシャンソン

津軽の人々の気性を表す言葉として、
「じょっぱり」が有名である。
強情っぱりで頑固である、と言う意味だ。

そんな言葉を正に体現した人物が、
シャンソン歌手の淡谷のり子であった。

淡谷は、服も配給制だった時代に、
ロングドレスを纏い、
アイシャドウやステージ用メイクを施していた。
決して見栄なんかではない。

大日本帝国軍から、
ノーメイクとモンペ姿で
歌うことを強いられたにも関わらず、
自分のスタイルを貫いた。

 せっかく兵隊さんたちが夢を求めているのに、
 きたならしいもんぺをはいて、
 化粧もしないで「別れのブルース」歌えますか。

淡谷のその頑なな信念に、
どれだけの兵士たちが勇気をもらったことだろう。

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