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礒部建多 14年6月15日放送

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Bill Herndon
小説家の提案

「牛河はずっと昔に流行った
坂本九の感傷的な歌を思い出した。
『見上げてごらん夜の星を、小さな星を』
というのが出だしの一節だ。

大ヒットした長編小説「1Q84」に
こんな文章を書いた村上春樹。
無類の音楽好きで知られる彼は、
ジャズを中心に、様々なジャンルの曲を聴くが、
特に坂本九の「上を向いて歩こう」は、大のお気に入りだ。

この曲と同じように、
世界中で愛されている小説を生み出す村上は、
アメリカでドライブ中に、ラジオで
「上を向いて歩こう」と、よく遭遇するらしい。
スキヤキなんて、ひどいタイトルだなあと思いながらも
ミネソタのだだっぴろい平原の真ん中で、
この曲が流れてきたときには、胸がじーんとしてしまったという。
村上は、後に、こんな言葉まで残している。

僕は「上を向いて歩こう」を、
日本の国歌とまではいわずとも、
準国家にすればいいのにと
長年にわたって主張しているんだけど、
いかがでしょうか?

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礒部建多 14年6月15日放送

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ekitop03
家族の願い

坂本九の遺作となった「心の瞳」。
初めて披露されたのは、自身の告別式。
娘、大島花子の演奏だった。

坂本家の長女として、花子は生まれ育った。
家庭内には、常に音楽が溢れていたし
誕生日になると父が、
娘のためだけに曲を贈ってくれた。

あまりにも突然過ぎた父の死。
やがてその悲しみを乗り越えるため
花子は、母と妹と家族ユニット「ママエセフィーユ」を組む。
今も、父が残した曲たちをステージで披露している。

 父は、家族で合唱や合奏をとてもやりたがっていました。
 だから私たち3人と父とで何かできないか、
 そう思って始めたユニットです。

花子たちの歌を、
坂本九は、どんな想いで聴いているだろう。

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礒部建多 14年5月11日放送

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IsakFotografi
サッカーとジャズ

「サッカーはジャズである。」
元日本代表監督、岡田武史は、
サッカーの理想型をこう語る。

楽譜通りの演奏だけではなく、
瞬間での即興性がある。
それがジャズの醍醐味。
サッカーにも戦術があるが
最後に試合を動かすのは、選手のひらめきだ。
岡田は言う。

「最善は、そのときだけのことであって、
 少しでも局面が変われば、最善の選択もかわってきます」

なるほど、
だからこそサッカーは人を魅了し、
時に、芸術的とも評されるのだろう。

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礒部建多 14年5月11日放送

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日本サッカーの父

日本サッカーの父と呼ばれた男、
デットマール・クラマー。

1964年、東京オリンピックの年。
彼は日本代表初の外国人コーチとして招かれた。
初歩的な練習を繰り返すクラマーに、選手たちは困惑した。
しかし日本はアルゼンチンを破り、ベスト8の快挙を成し遂げる。

クラマーの日本サッカーへの愛は、
自国ドイツをも超えていた。
日本を去った後、
1975年にバイエルン・ミュンヘンを率いて
UEFAチャンピオンズカップで優勝した時でさえ、
こんなコメントを残している。

 人生最高の瞬間は
 日本がメキシコ五輪で銅メダルを獲得したときです。
 私は、あれほど死力を尽くして戦った選手たちを見たことがない。

クラマーの最高の瞬間を、
今年の日本代表に超えてほしい。

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礒部建多 14年4月27日放送

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音楽と哲学者

今日、4月27日は哲学の日。

哲学者には、音楽を愛する者が多い。
ピタゴラスは、純正音階を考え出した。
ルソーは、日本ではむすんでひらいての童謡で知られる
オペラ「村の占い師」を残した。

若いニーチェもまた、哲学に傾倒する前、
精力的な作曲活動に取り組んでいた。
正式な音楽教育は受けず、自分の耳を頼りに
13歳で初めての曲「From ”Allegro”」を完成させる。

数多くの作品を残すものの、注目も、評価もされなかった。
限界を感じ、音楽から遠ざかりながらも、
ニーチェの思想の片隅には、常に音楽への強い想いがあった。

著書、「悲劇の誕生」では、
他の芸術よりも音楽を
遥かに優れたものとして扱っている。

もしかしたらニーチェは、音楽家として生きる夢を、
最期まで捨てきれなかったのかもしれない。
晩年には、こんな言葉を残している。

 私ほど、本質的に音楽家であった哲学者はいない。

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礒部建多 14年4月27日放送

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Robert Snache
夜空と哲学者

今日、4月27日は哲学の日。

「万物の根源は水である」と唱えたことで知られる
記録に残る最古の哲学者、タレス。

古代ギリシアの名家に生まれ、
幼い頃から様々な才能に恵まれたタレスは、
天文学が好きで毎夜、空を見上げては星を観察していた。

ある日、夜空に夢中になるあまり、
タレスは溝に気づかず落ちてしまう。
通りかかった女性は、その姿を見て
「学者は遠い星のことはわかっても、自分の足元のことはわからないのか」
と笑ったという。

それでもタレスは、夜空を見上げた。
そして後に、世界で初めて日食の存在を
予測したと言われている。

足元ばかり見ては、何も生まれない。
タレスが、いつもそうしていたように、
たまには春の夜空を見上げて、歩いてみよう。

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礒部建多 14年3月2日放送


NASA’s Marshall Space Flight Center
宇宙への試験

 「驚きの連続だった。
  地球が足元で回っており、息をのんだ。」

夢が叶った瞬間の興奮を、
野口聡一は宇宙から、こう語った。

小学生の頃から「宇宙飛行士」を
夢に見続けた野口だが、
大学受験では浪人を経験。
第一志望の会社にも入れなかったが
回り道をしながらも夢を諦めなかった。

転機が訪れたのは1996年。
JAXAによる、宇宙飛行士の公募だった。
野口は、長年の夢に全てをかけて
倍率572倍の狭き門を見事突破。
31歳の時だった。

「夢の実現は、夢じゃない。」

そう語る野口の姿に
勇気をもらった人は、星の数ほどいる。

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礒部建多 14年3月2日放送



宝塚受験

定員40名前後の狭き門に、
応募者は全国から1000人を越える、宝塚音楽学校。
天海祐希は、同校を代表するトップスターだ。

当時通っていた高校の先生に薦められ、
宝塚を目指すようになった天海。
バレエや歌のレッスンに通い始めると、
すぐに才能を開花させ、「10年に1人の逸材」とも呼ばれた。

しかし、誰もが天海の受験を後押しする中
レッスンの先生だけは、こう言った。

 「今、あなたが宝塚を受験したら、
  受かってしまうかもしれない。
  それでは入学してから、あなたが大変な苦労をする。」

天海は、その年の受験を見送り、
翌年の試験でトップ通過を果たす。
そして、最年少で月組トップスターに就任するなど
輝かしい実績を収めた。

ゴールは目先の合格だけではない。
ずっと先の人生と、真摯に向き合うこと。
それを受験と呼ぶのだろう。

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礒部建多 14年2月9日放送


Dick Thomas Johnson
日本武道館

東京都九段下にある、日本武道館。
1966年6月30日を境に
ロックの殿堂と呼ばれるようになった。

その日、
初めて武道館でライブを行ったのは、ビートルズだ。
それまで、厳粛な武道の場であったため管理側は猛反対。
しかし、ライブの企画担当だった
読売新聞の鈴木啓正(すずきひろまさ)は、
こう説得した。

 「英国女王陛下から
  勲章をもらった芸術家に
  貸してもらいたい。」

その一言が、
武道館を日本一のライブ会場に変え、
東京を日本の音楽の中心にした。

今日もたくさんのミュージシャンが、
そこで演奏する日を、夢見ている。

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礒部建多 14年1月12日放送


epiclectic
大人の歌声

渋くも、
艶のある大人の歌声。
ボズ•スキャッグスのそれには、
男女問わず魅了する魔力がある。

楽曲は、クロスオーバー的で大人な旋律。
1976年に発表した「Silk Degrees」では、グラミー賞を獲得。
このアルバムがきっかけとなり、
AOR(adult oriented rock)という
新しいジャンルさえ生まれた。

以降、
TOTOやボビーコールドウェルなどの
AORの名アーティストが誕生するも、ボズは別格だった。
ブルースのようでいて、ソウルフル。
ボズの声を越えるAORアーティストは、
未だ現れていない。

来年には70歳を迎えるボズ。
年を重ねる度、その声は渋みを増し、新たな魅力を携える。
こんな大人に、なってみたい。

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