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福宿桃香 16年12月10日放送

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1860年3月3日の雪

1860年3月3日。
季節外れの大雪に見舞われたその日、
井伊直弼は、水戸浪士らによって暗殺された。

彼の護衛は五十名を超え、普段であれば負けるはずもない戦い。
ところが雪に備えた重装備であったため
すぐに刀を抜くことができず、わずか十数名の敵によって、
井伊直弼は首を落とされてしまったのである。

知らせを聞いて駆け付けた武士は、そのときの光景をこう語った。

「雪は桜の花を散らしたように血染となっていました。」

桜田門外の変ー。
もしも雪が降っていなければ、歴史は変わっていたかもしれない。

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福宿桃香 16年10月8日放送

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読書の話 ビル・ゲイツ

マイクロソフトの創業者、ビル・ゲイツ。
21世紀トップの大富豪である彼の自宅には、
1万4000冊を超える書物が並ぶ個人図書館がある。

ゲイツの読書好きは、
両親によって導かれたものであった。
幼い彼には偉人の伝記からSF小説まで
ありとあらゆるジャンルの本が与えられ、
それらの内容について、来る日も来る日も両親と議論。
読書に集中できるよう、平日のテレビ鑑賞は一切禁止だったそうだ。

本に囲まれた幼少期がなければ、
今の成功は絶対になかったと断言するゲイツ。
だが、コンピューター業界のど真ん中にいる彼から見て、
インターネット時代の今、
子供に読書を習慣づけることは時代遅れではないのだろうか?
ゲイツはこう答えた。

 僕の子供はもちろんコンピューターを持つだろう。
 しかし、それより前に、本を手にする。

 
どれだけネットが進んでも、
それが本を読む大切さを引き下げることは今後もない。
あのビル・ゲイツが言うのだから、きっと間違いないはずだ。

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福宿桃香 16年9月10日放送

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かつてないをつくる人 江口勝也

「どうぶつの森」のプロデューサー、江口勝也。
敵もいなければ、エンディングもない―
全く新しい形のこのゲームは、江口のこんな思いから生まれた。

子どもと一緒にゲームをすれば楽しいことがわかっていても、
仕事が忙しくて、それができない。
だったら、お母さんや子どもが遊んだあとに
自分が遅い時間に帰ってきて遊ぶことで、
何かが重なりあうようなものができないだろうか。

こうして江口が辿り着いたのが、
ひとつの街に複数のプレイヤーが暮らす、というゲームである。

特に徹底したのは、現実と同じように時間が流れる街だということ。
遊ぶ時間によって設定が変わるようにしたことで、
たとえば、街のスーパーが閉まった後の時間にしか遊べないお父さんのために、
昼間のうちに子どもが商品を買って、手紙でプレゼントしたり。
帰宅したお父さんが、夜中にしか現れないサカナを釣って、
こどもの家の前に置いておいたり。
そんな家族のコミュニケーションを次々と生みだしたのだ。

江口の、ひとりの父としての願いから誕生したどうぶつの森は、
今日も日本中で、家族の時間をつくっている。

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福宿桃香 16年8月13日放送

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昆虫採集 田淵行男

山岳写真家であり、
蝶の研究者でもあった田淵行男。
4歳で母を亡くし、
幼少期のほとんどを外で過ごした彼にとって、
虫は一番の友達だった。
自らの誕生日の6月4日を勝手に「ムシの日」と呼び、
虫との絆を自慢していた程である。

ある時いつものように虫を追いかけていると、
巨大な青紫の羽を広げたオオムラサキが
田淵少年の虫取り網をひらりとすり抜けた。
彼が蝶の虜になった瞬間だ。

やがて、蝶は彼の生きがいになっていく。
わずか13歳にして、母についで父を亡くした時も。
戦争で強制疎開を命じられた時も。
パーキンソン病を患った時も。
蝶を探して山に登っている間は、すべてを忘れられた。

生涯をかけた蝶探しの旅と新発見の数々は
国内外で広く称えられたが、
当の本人は、何度も幼少期をやり直せたかのようで
ただ嬉しかったと、静かに笑っていたという。

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福宿桃香 16年7月16日放送

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APOLLO 11 吉田和哉

 大切なのは、ワクワクすること。
 宇宙にワクワクするなら、その道に進もうと思ったんです。

アポロ11号が叶えた人類初の月面着陸は、
日本でも生中継され、多くの人たちが見守った。
当時8歳だった吉田和哉も、そのうちの一人だ。

アポロは彼の夢になった。
大学では工学部に進んだがその気持ちは変わらず、
「宇宙ロボット」というジャンルを開拓。
自分の手がけたロボットが宇宙へ行く日を目指して、情熱を注いだ。

そして今。
吉田はもう一度違う形で、
アポロ11号に出会おうとしている。
民間の月面探査チーム「HAKUTO(ハクト)」が来年、
吉田の制作したロボット探査機を月に飛ばし、
アポロ着陸の痕跡を探す予定なのだ。

47年の時を経て、憧れに間もなく、手が届く。

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福宿桃香 16年4月9日放送

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たまごの話「アルビン・カイランの卵料理」

ふわふわのマッシュポテトを瓶に入れ、
上から生卵をのせて、湯せんすること5分。
半熟になった卵とポテトを一気に混ぜたら
焼きたてのパンにのせ、かぶりつく。

あたらしい卵料理として人気を集めている「エッグスラット」。
ブームは、ロサンゼルスの小さな屋台、
その名も「エッグスラット」から始まった。

オーナーのアルビン・カイランは、幼い頃から卵が大好きだった。
エッグスラットを思いついたのは、料理学校時代。
「瓶をつかったレシピ」という課題を出され、
大好物の卵を使いたいと考え抜いたそうだ。

卵に情熱を注ぐ彼は、朝食にも情熱を注ぐ。
ロスで店を始めたのも、現地の朝食に疑問を抱いたからだ。
平日は、出勤途中にドライブスルーで済ませてしまう。
休日は、巨大な甘いパンケーキばかり。

そんな状況を見て、カイランはこう語った。

 流行の最先端の、真逆を追い続けたい。
 そこに正しいやり方と正確な技術があれば、
 人はいちばんシンプルな料理にちゃんと感動できる。

本当に良い朝食を届けるために。
卵を片手に、彼の挑戦はつづく。

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福宿桃香 15年12月12日放送

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ケーキの話 ドリー・バードン・ケーキ

イギリスの国民的作家、チャールズ・ディケンズ。

彼の著書『バーナビー・ラッジ』がきっかけで、
19世紀、ひとつのケーキが誕生した。

それが、ドリー・バードン。
砂糖漬けのドライフルーツを散りばめた、
カラフルで、大きなケーキ。

『バーナビー・ラッジ』に登場する
華やかなドレスを着た女の子、
その名もドリー・バードンに触発された読者が
考案したそうだ。

ドリー・バードンはその後ひとりでに広まり、
今では、ドレスを着た人形の形のバースデーケーキは
総じて「ドリー・バードン・ケーキ」と呼ばれている。

「笑いと上機嫌ほどうつりやすいものもこの世にない。」

そう語っていたディケンズがこのことを知ったら、
とても喜んだに違いない。

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福宿桃香 15年12月12日放送

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mezzoblue
ケーキの話 ピエスモンテ

アメリカやイギリスにおいて、
ケーキは昔から、特別な日の家庭料理だ。
母親が自己流のアレンジを加え、
家ごとにそれぞれのケーキが出来上がる。

フランスのケーキは違う。
ケーキ作りは専門職であり、
味、形、飾りつけの果物の数まで、
決められたレシピに従って仕上げることが
最も重要とされている。

レシピのほとんどは、
18世紀・19世紀の菓子職人達によって生み出された。

彼らの頂点にいたのが、アントナン・カレーム。
エクレアやムースなど、彼が考案したケーキは数えきれない。

カレームの最大の功績は、
ピエスモンテと呼ばれるデコレーションケーキ。
クリームやアイシングを建築物のように高く積み上げる、
いまや結婚式に欠かせない、あのケーキである。

類まれなる創造性でケーキを創り続けた彼は、
生前こう語っていた。

「芸術には五種類ある。絵画、彫刻、詩、音楽、建築。
 そこから分かれた大きな枝が菓子だ。」

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福宿桃香 15年8月22日放送

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あるオタクの話 嶺脇育夫

タワーレコード社長、嶺脇育夫。
女性アイドルについて検索すると、必ず彼の名前に辿り着く。

CDショップに入社した理由は、洋楽が好きだったから。
ところが、たまたまテレビで見たモーニング娘。にハマり、
ありとあらゆるアイドルにのめりこんだ。

嶺脇は、周りのスタッフがアイドルというジャンルに対して
意識を向けていないことに不満を持った。

誰もやらないなら、自分がアイドルを売り出すしかない。

今では当たり前となった店舗内でのアイドルイベントの
仕組みを作り出したのは、彼だ。

現場での積極的な活動は評価され、社長に就任。
その数ヶ月後にはなんと、T-Palette Records
というアイドル専用レーベルまで立ち上げた。

「やっぱり売る側が好きだって言わないと、
 お客さまにも届かない。僕でよければ
 アイドルがどんなに好きかってことを語りますよ」

彼は、アイドルオタクにとっても
アイドルにとっても、希望だ。

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福宿桃香 15年8月8日放送

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マイヤ・プリセツカヤ①

2015年5月2日、ひとりのバレリーナがこの世を去った。
彼女の名は、マイヤ・プリセツカヤ。
「20世紀最高のバレリーナ」と呼ばれた、伝説のダンサーだった。

生まれ持った運動能力とカリスマ性を考えれば、
プリセツカヤがバレエの道を進むことは、必然だったといえる。
彼女は、生後8ヶ月で歩き始めた。
誰に教わるでもなく爪先立ちで歩き回るようになり、
靴に穴が開くまで踊り騒いだという。
見かねた両親に連れられて行ったバレエ学校の試験では、
彼女が披露した1回のお辞儀に審査員が魅了され、合格となった。

天性の素質が開花した彼女の勢いは止まらない。
バレエの知識も経験も持たずに入学してきた少女は
卒業試験を満点で合格。
世界5大バレエ団のひとつ・ボリショイバレエの一員となった。

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