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茂木彩海 12年12月23日放送


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愛のはなし 向田邦子と向田和子

たとえ家族でも、この世で出会えたことは奇跡だ。

昭和の時代、心の機微を描いた作家。向田邦子。
そんな彼女だからこそ、
身近な人に掛ける言葉は、その視線は、
とてもあたたかく、家族からも愛されていたという。

特に妹の和子は、邦子の一番のファン。

仲のよかった2人は、昭和53年、一念発起し
東京都港区赤坂で小料理屋「ままや」を開店した。

コンセプトは、「女性が一人でも気軽に寄れるお店」。

「鯵の干物とポテトのサラダ」や、「さつま芋のレモン煮」など
他のお店にはちょっとないような、
料理好きだった二人が楽しみながら試行錯誤してつくったお惣菜の数々が並んだ。

家族という一番身近な存在だったからこそ
なかなか伝えられないありがとう。

この2人だって、例外ではないけれど、
ある日、一緒に食事をした帰り道。
交差点で信号待ちをしている時に邦子は、和子にこう言った。

あなた本当にいいやつだねって、
私、ずっと思ってるんだよ。

照れながら、何気なく。
この冬こそ、身近な人に愛の言葉を。

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茂木彩海 12年12月23日放送


geminicollisionworks
愛のはなし イングリッド・バーグマン

最も偉大な女優50人に選ばれた
イングリッド・バーグマン。

21歳で結婚するも、映画監督
ロベルト・ロッセリーニの作品を見て
その才能に惚れこみ、仕事と家庭を捨てて愛に生きた。

そんな彼女の代表作。
「誰がために鐘は鳴る」の中にこんな台詞がある。

 私はまだキスした事がないのよ。鼻をどうするの?

恋愛だって受け身にならない。
いつの時代もいい女の定義は、きっといっしょ。

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茂木彩海 12年11月04日放送


Wasfi Akab
空のはなし 福島の空

今年の夏に行われた福島ビエンナーレ。
震災復興祈念事業として行われたこの芸術の祭典のテーマは、「SOLA」。

世界から集まった芸術家の中には、
オノ・ヨーコの名前もあった。
彼女は呼びかけた。

 布などに空の絵を描いて
 全部の空をつなげて
 ひとつの大きな空にしましょう。

 それは、育ち続けます。
 それは、広がり続けて
 高みに届くでしょう。

 空は遥か遠くにあるのではありません。
 空は私たちのところに降りてくるのです。

彼女が書いた「福島のための空の曲」。
それは空ほどの大きなものだって
手に届かないものなどないと、教えてくれた。

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茂木彩海 12年11月04日放送



空のはなし オウムの空

空を飛ぶ鳥を見ると、つい思い出す。
ライト兄弟の兄、ウィルバー・ライトの言葉。

 言葉をしゃべる鳥はオウムしか知らない。
 オウムはあまり高く飛べない。


言葉を忘れて、頭をからっぽにして、ただ風に身を任せてみる。
そんな時、わたしたちはいちばん空に近いのかもしれない。

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茂木彩海 12年10月7日放送



色のはなし  黒澤明の椿

巨匠、黒澤明は色にもこだわる監督だった。
昭和37年公開、モノクロ映画『椿三十郎』。

撮影中、黒澤はふと思う。
椿の花だけ、赤くできないだろうか

そこで、赤い椿をすべて墨で黒く塗り、
白い椿とのコントラストを強めることで白黒の世界に、
赤い椿を咲かせてみせた。

色だって型にはめない。それが黒澤流。

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茂木彩海 12年10月7日放送



色のはなし 色の住人ポロック

床に広げた紙に、筆につけたペンキを上から垂らしたり、
飛ばしたりしながら
その色を重ねて、絵画にしていく。
今だからこそよく見られる、ポーリングという技法。
この技法を一番最初に使用し、世界を驚かせた画家がいる。

ジャクソン・ポロック。
44歳でこの世を去った、アメリカを代表する画家。

画家としての活動をはじめてから間もないころ、
ある仕事で、尊敬していたメキシコ壁画運動を行う作家の助手を務め
巨大な壁にスプレーやエアブラシで描くその姿に唖然とした。

直接筆を持ってキャンバスに向かえば、
どうしたって意識的に線を描いてしまう。
筆を地面に着けずに色だけを落とすことで
無意識の世界が描けるのではないか。

そうしてポーリングという技法にたどり着いたポロックは、
ついにアメリカ抽象絵画の頂点に立つ。

このころ描かれた伝説の最高傑作
「インディアンレッドの地の壁画」には、
現在200億円の値が付けられている。

ポロックは言う。

 絵のまわりを歩き、四方から制作し、
 文字通り絵のなかにいることができるのだから、
 わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。

色の中に住む画家ほど、
画家に嫉妬される者はいないだろう。

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茂木彩海 12年9月2日放送



果物のはなし 角田光代と梨

忙しくなると、めっきり果物を食べなくなる。
バナナのように簡単に皮がむけるものはさておき、
りんごや梨など秋の果物は、冷やしたり、切ったり面倒だ。

梨好きの作家、角田光代は、果物は娯楽であると言いきる。
ごはんや野菜と違って食べなくともなんの支障もない。
だからこそ、果物には、毎日の余裕があらわれる。

角田は言う。
「そんなに駆けまわらず、あくせくせず、優雅に梨の皮を剥きたいものです。」


rocky
果物のなはし 吉本ばななとバナナ

新人文学賞選考委員の中村真一郎は、
なによりもその「途方もない筆名」に驚いたという。

吉本ばなな。

学生のころアルバイトをしていた喫茶店でバナナの花を見かけた彼女は、
その姿、形に一目ぼれ。
「あんなに大きくて変なものがこの世にあるなんて、それだけで嬉しい」

ばななのそんな感性に出会いたくて、
今日も誰かが、彼女の本を手に取るのだろう。

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茂木彩海 12年8月19日放送



部活の話 川越高校の水泳部

埼玉県、川越高校。

明治32年に創立され、105年の歴史を誇る、
埼玉県有数の進学校にして、硬派な男子校。

ここに、映画「ウォーターボーイズ」のモデルとなった
水泳部男子シンクロチームがある。

チーム誕生の理由は、ただ、女の子にモテたかったから。

とはいえ本業は、あくまでも『競泳』の彼ら。
1、2年生は、夏休みの午前中は競泳に、
午後は夜8時までシンクロの猛練習。
3年生は、進学校だけに、「受験勉強」との両立に悩まされる。

シンクロだって遊びでやってるわけではなかったが
本人たちはそろって「シンクロ部じゃなくて水泳部」と口をとがらせた。

そんな彼らについて、映画監督の矢口史靖はこう語る。

 たった一度変わるだけで、その先に大きな広がりがあったりする。

水泳部がシンクロをやる。その変化こそが、
彼らの青春を、とんでもなくキラキラと輝かせたのだろう。



部活の話 阿木 燿子の合唱団

作詞家、阿木 燿子。

8年前、思い立ってアマチュア合唱団をつくった。
今では下は16歳から、上は84歳まで
約80人のメンバーが活動している。

作詞家の自分が書いた歌を歌う。

今までと違うことをやるのは面倒でも、
心にしたがって、やってみる。
そんな彼女の決意の言葉。

 ひらめきを、信じる。

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茂木彩海 12年7月8日放送


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3. 冒険の話 高橋淳

現役最高齢パイロット、高橋淳。
御年88歳。
空を飛んだ時間、2万5000時間。
師匠と仰ぐ者たちはみな、彼を「飛行機の神様」と呼ぶ。

世界大戦が始まり、軍隊に入った高橋は
戦死することが栄誉だとされた時代、
何が何でも生きて帰ると心に決めていた。
なりたかったのは軍人じゃない。飛行機乗りなんだ。
その気持ちが高橋を守った。

終戦後はプロパイロットの養成に力を入れたが
49歳でフリーのパイロットに転身。
飛行機は車とは違い機体に個性があるため、
免許があっても、すべてを乗りこなせるわけではない。
50種類以上の機体を乗りこなせるのは、今も昔も、高橋だけ。
ひとりでも大丈夫。自信があった。

高橋は言う。

 「せっかく生まれてきたんだから、
 僕は死ぬまで進歩したい。」

生き方そのものを、冒険と呼びたくなる人は
今の世界に、いったいどれだけいるのだろう。

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茂木彩海 12年7月8日放送


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5. 冒険の話 アーネスト・シャクルトン

アーネスト・シャクルトン。
1914年、エンデュアランス号で、
人類初の南極大陸横断を目指し、出航した。

南極大陸まで320kmの地点で、四方を氷にはばまれ、
10ヶ月ほど漂流するものの、氷の圧迫でエンデュアランス号が崩壊。
この時点で南極横断計画はとん挫してしまう。

救助を求めようと、500キロ先のエレファント島へ
なんとか徒歩でたどり着き、
さらに1,300キロ離れたサウスジョージア島へ、
救命ボートを使って再び出航。

ついに救助されたのはイギリスを出発してから約2年後のこと。
シャクルトンと、その隊員27名全員が奇跡的に生還した。

隊員を募集した時、シャクルトンはこんな広告を出している。

 「求む男子。至難の旅。僅かな報酬。極寒。
 暗黒の日々。絶えざる危険。生還の保証なし。
 成功の暁には名誉と賞賛を得る」

冒険するか、しないか。
どちらを選ぶかは、
私たちの生き方の選択肢としていつでも用意されている。

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