‘藤本宗将’ タグのついている投稿

藤本宗将 13年3月16日放送


duycomposer
導く言葉 ジョゼ・モウリーニョ監督 2

どんなときも自信たっぷり。
自分はスペシャルな存在だと公言して憚らず、
過激な発言で相手を挑発する。
それがサッカー監督ジョゼ・モウリーニョ。

しかし、その攻撃的なイメージとは裏腹に、
選手たちに対しては決して批判の矛先を向けない。

チームのために全力のプレーを厳しく要求する。
しかし結果が伴わなかったとしても、責任は自分が取る。
指揮官として、彼にはそれだけの覚悟があった。

2008-09年のチャンピオンズリーグ。
当時率いていたインテルが
マンチェスター・ユナイテッドとの大一番に敗れたあと、
モウリーニョはこう言い放った。

 「選手たちを批判したいなら、まず私を殺してからにしてほしい」

topへ

藤本宗将 13年3月16日放送


tpower1978
導く言葉 ジョゼップ・グアルディオラ 1

スペインリーグの強豪、バルセロナを率いた
サッカー監督ジョゼップ・グアルディオラ。

彼はとても研究熱心なことで知られる。
なにしろ、ある表彰式を欠席したときのコメントがこうだ。

「次の対戦相手の映像を3本
 分析しなければならないから」

それだけが理由かどうかは、わからない。
もしかしたら彼は自らの行動で、
選手たちに示したかったのかもしれない。

過去を賞賛されることよりも
これから賞賛されるための努力に時間を割くべきだと。

topへ

藤本宗将 13年3月16日放送


Christopher Johnson
導く言葉 ジョゼップ・グアルディオラ 2

サッカー監督は、勝つことが仕事。
だからこそ実績やデータを考慮しながらチームをつくっていく。

ジョゼップ・グアルディオラが
バルセロナの監督に就任した2008 年当時も、
輝かしい実績を持つ選手がたくさんいた。
ロナウジーニョ。エトー。デコ。
UEFAチャンピオンズリーグ制覇など、
数々のタイトルをもたらしてきた中心選手たちだ。

しかし新監督は、
就任会見で「彼らなしでやっていく」と表明。
周囲を驚かせた。

全盛期は過ぎていたとしても、世界トップクラスのプレーヤー。
チームに栄光をもたらした功労者を切れば、
責任を一身に背負うことになる。
しかしグラディオラはきっぱりとこう言った。

 「勝利の後にも変化は必要だ」

その変化が生んだものこそ、メッシを擁する現在のバルセロナ。
過去よりも未来を信じた指揮官のもとで、
史上最強ともいわれるチームに成長したのだった。

topへ

藤本宗将 13年1月13日放送



ソーニャ・コワレフスカヤの20歳

数学者ソーニャ・コワレフスカヤ。
ロシアで初めて大学教授の地位を得た女性である。

父はポーランド系貴族。母はドイツの名門の生まれ。
輝かしい血統の世継ぎを待ちわびていた一家にとって、
女のソーニャは望まれない子供。
そんな少女がはじめて父に褒められたのが、14歳の頃。
類いまれな数学的才能を見いだされたときだった。
愛情に飢えていたソーニャは、それから数学に没頭。
やがて留学を望むようになる。

しかし時代は19世紀。当時のロシア女性は、
親の承諾なしには国外へ出ることもできなかった。
自分の人生の決定権がなかったのだ。
そのとき彼女がとったのは「偽装結婚」という手段。
結婚することによって親のもとを離れ、
偽りの「夫」とともにヨーロッパに渡ったのである。

ソーニャは推薦状も成績証明書も持たず、
ベルリンの数学者ワイエルシュトラスの門を叩く。
この厄介な訪問者を追い払おうと
ワイエルシュトラスが出したのは、大学院クラスの難問。
しかし彼女はそれを鮮やかに解いてみせた。

ソーニャ・コワレフスカヤ20歳。
女性が自らの手で人生の扉を開いた瞬間だった。

明日は成人の日。

topへ

藤本宗将 13年1月13日放送



エヴァリスト・ガロアの20歳

天才数学者にして革命家。
エヴァリスト・ガロアは革命と反動に揺れる
19世紀のフランスに生を受けた。

自らの才能を自覚していたガロアは
学校教育を軽蔑し、独学で高等数学をマスター。
しかし20歳のときに決闘で若い命を散らしてしまう。

死を予見していたのだろうか。
決闘前夜、彼は「もう時間がない」という言葉とともに
数学的な発想の断片を走り書きで残した。
それは後の数学者たちの研究により、ガロア理論となる。

けれどもしガロアが20歳で死ななければ、
もっと偉大な成果を残したはずだ。
それは数式など必要としないほど、明らかである。

明日は成人の日。

topへ

藤本宗将 12年12月29日放送



5番目のムーンウォーカー:アラン・シェパード 1

その男は、アメリカ初の宇宙飛行士。
だが人類の一番にはなれなかった。

NASA第1期宇宙飛行士に選抜されたアラン・シェパードは、
1961年5月5日、有人宇宙飛行に成功。
しかし人類初の宇宙飛行はそのわずか1カ月前、
ソビエトのガガーリンによって達成されていたのだ。

シェパードはつづくアポロ計画にも加わるが、
月面を歩くという人類初の偉業は
すでに後輩のアームストロングが実現したあと。

そんなシェパードが、月に向かう前
NASA上層部にひとつの申し出をした。

「月面でゴルフがしたい」

彼は、人類初の月面ゴルファーをめざしたのだ。

topへ

藤本宗将 12年12月29日放送



5番目のムーンウォーカー:アラン・シェパード 2

アラン・シェパードは、アメリカ初の宇宙飛行士。
そして、大のゴルフ好き。

そんな彼が、アポロ14号の出発前、
月面でゴルフをしたいと言い出した。

NASA最古参であるシェパードの望みとはいえ、
簡単に許可できる話ではない。
上層部も悩んだとみえて、3週間後にようやく回答が返ってきた。

「月の重力は地球の6分の1に過ぎない。
 従ってボールは6倍の飛距離を見せるだろう。
 容易に想像されることだが、
 ロストボールを発見するために
 1000ヤードの道のりを走る必要に迫られる。
 余裕のない旅で、この贅沢は許されない。

 …もし、ボールの行方に固執しないと約束するなら、
 大いにゴルフを楽しみたまえ」

topへ

藤本宗将 12年12月29日放送



5番目のムーンウォーカー:アラン・シェパード 3

ただでさえ夢を実現するのは難しいが、
宇宙でとなればさらに難しい。

月面でのゴルフを計画していたアラン・シェパードに、
「スペース」の問題が立ちはだかった。
アポロ14号の月面着陸艇には、
クラブ1本積み込む余裕すらなかったのだ。

着陸艇の図面を前に悩むこと1週間。
月面での土壌収集に使うシャベルの柄に
シェパードはようやく余分な空間を見つけた。

そこにクラブを短縮して装着できるよう、
ジョイント式のアルミシャフトを採用。市販のヘッドを取り付けた。

まさに、必要は発明の母。

ところで、なぜ6番アイアンだったのか?
それは、シェパードがいちばん得意なクラブだったから。

topへ

藤本宗将 12年12月29日放送



5番目のムーンウォーカー:アラン・シェパード 4

アポロ14号の宇宙飛行士アラン・シェパードによる
月面ゴルフ計画は、全米の注目を集めた。
テレビ局は”GOLF ON THE MOON !”というタイトルの特番まで組んだ。
人々の関心は、ただ一点。

重力が地球の6分の1しかない月では
いったいどれほどボールが飛ぶのか?

シェパードの6番アイアンの平均飛距離は150ヤード。
単純計算すると900ヤードのスーパーショットが生まれることになる。

用意したボールは3個。

世界が固唾を飲んで注目した1打目は、失敗。
しかし2打目、3打目は手応えがあったのだろう。
シェパードは無邪気に叫んだ。
「どこまでも飛んで行ったぞ!」(Miles and miles and miles!)

もっとも実際には月の砂埃がひどくて
肝心のボールの行方はまるで見えなかった。
後に試算したところ、どうも200〜400ヤードしか飛ばなかったらしい。

すべてをはっきりさせないほうがいいこともある。
特に、夢と呼ばれるようなものは。

topへ

藤本宗将 12年12月29日放送



5番目のムーンウォーカー:アラン・シェパード 5

人類で初めて月面でのゴルフを計画し、
月の砂の上で見事なバンカーショットを決めた
宇宙飛行士アラン・シェパード。

この偉業によって
彼はゴルフ界から表彰されることになったが、
そのパーティ会場にはるばるイギリスから祝電が届く。
差出人はゴルフの総本山、
ロイヤル・アンド・エンシェント・ゴルフクラブ。

お固いイギリス人も快挙と認めたか!
みな上機嫌で聞いていたが、
最後の一文が読み上げられると、がっくりとうなだれた。

「ご承知とは思いますが、バンカーから離れる際、
 プレーヤーは自分の足跡をならさなければいけません。
 以上、ご忠告まで」

ルールの重みは、地球と同じだったようだ。

topへ


login