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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-07
campra
鎌倉の大仏と女流歌人

鎌倉大仏の裏手には、
有名な与謝野晶子の歌碑がある。

 かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は
 美男におはす 夏木立かな

与謝野晶子は「釈迦牟尼」と詠んだが、
正しくはこの大仏は「阿弥陀如来」。

美男と褒められたはいいが、
名前を間違えられては
大仏さまも複雑な気分だろう。

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藤本宗将 17年4月9日放送

170409-08

京の大仏と天下人

大仏といえば奈良と鎌倉。
しかし、かつては三大大仏に数えられる
もうひとつの大仏があった。
天下を統一した豊臣秀吉が、
晩年になって京都・方広寺につくらせたものだ。

記録によれば、その高さは19m。
奈良の大仏が15mほどだから、その巨大さがわかる。

しかし、そんな方広寺の大仏も
慶長伏見大地震によって倒壊してしまう。
倒れた大仏を見て秀吉はこう言い放ったという。

 かように、わが身を保てえざる仏体なれば、
 衆生済度(しゅじょうさいど)は、なかなか思いもよらず。

自分の身も守れない仏に
人々を守れるものか、と激怒したのだ。
さらに大仏めがけて矢を射かけたという話まで残っている。
もしかしたら、自分亡き後の不安が
秀吉をそこまで苛立たせたのかもしれない。

方広寺の鐘の銘をきっかけにして
豊臣家が滅んだのは、
それから19年後のことである。

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藤本宗将 17年2月11日放送

170211-02

ぬいぐるみの話 マーガレット・シュタイフ

1847年、ドイツのある小さな町に、
マルガレーテという女の子が生まれた。
1歳半のとき病気で両足と右手が不自由となり、
一生を車椅子で過ごすことになった彼女。
その人生を変えたのは、
洋裁という仕事との出会いだった。

左手だけで扱えるようにミシンを逆向きで使うなど
工夫しながら技術を身につけ、
30歳の時には家族の助けもあって洋裁店をひらく。

あるとき、甥や姪たちのために彼女がつくった
フェルト製のぬいぐるみが大評判に。
そこから会社はどんどん大きくなっていく。

彼女の会社の代表作となったクマのぬいぐるみは、
いまでも「テディベア」と呼ばれ愛されている。

そのクマは、19世紀という時代にあって
障害をものともせず、
自立した女性がいたことの証なのだ。

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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-01

紫式部と風邪とニンニク

『源氏物語』第二帖「帚木」の冒頭に、
「雨夜の品定め」というくだりがある。

光源氏の部屋に集まった男性たちが
それぞれの女性論を語るのだが、
そのうちのひとりである藤式部丞の体験談に
風邪をひいた女性とのエピソードが出てくる。
その女性は、会いに来た彼にこう伝える。

 月ごろ、風病重きに堪へかねて、極熱の草薬を服して、
 いと臭きによりなむ、え対面賜はらぬ。

風邪で薬草を飲んでいてそのにおいが大変に臭いので
面会は遠慮させてください、ということだ。
この薬草とは、ニンニクのこと。
ニンニクの効能が古くから知られていたことがわかる。

それにしても
匂いが気になって男性の前に出られないとは、
作者である紫式部にも
そういう経験があったのだろうか。

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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-02

能登屋甚三郎と風邪と葛根湯

風邪といえば、葛根湯。
2000年前に生まれたこの漢方薬は、
現在に至るまで多くの人々を助けてきた。

江戸時代末期の金沢で暮らしていた
町人・能登屋甚三郎の日記にも、
風邪で葛根湯を飲んだ記述が残っている。

 風邪気味だったのを我慢していたところ、
 寒さのせいか風邪がひどくなってしまった。
 そこで葛根湯を三回飲み、
 さらに二番煎じも飲んで今晩は汗をかいた。

さらに翌日には、こうある。

 夜に汗をかいたおかげで、
 風邪は昨日よりだいぶ良くなってきた。
 今晩も昨晩と同じく葛根湯を三回飲んで汗をかいた。

ちなみに日記によれば、
こうして風邪をひいているあいだにも
甚三郎は勤めに出ていたらしい。

風邪でも仕事を休めない。
そんな日本人の悪しき習慣は、
いつになったら治るのだろう。

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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-03

福沢諭吉と風邪とフランネル

明治3年に大きな病を患った福沢諭吉。
なんとか全快したものの
風邪をひきやすくなったりして、
体力の衰えに悩んでいた。

そんなとき友人の外国人医師から、
「肌着をすべてフランネルにすれば風邪をひかなくなる。」

と教えられた。

さっそくシャツもモモヒキもフランネルでこしらえ、
足袋の裏にまでフランネルを付けさせて
全身暖かくしてみたものの、いっこうに効果がない。
やはりすぐに風邪をひいてしまい、すぐ熱が出る。

そこで彼は180度考えを改める。
かつて田舎で暮らしていた頃の質素な生活に戻したのだ。
あえてストーブも焚かず、木綿の着物を着て、
薪割りなどの運動をして汗をかくように心がけた。
すると次第に身体が丈夫になり、
風邪をひくこともなくなったという。

福沢は、自伝の中でこう言っている

 「こちらから媚びるから、病は段々つけあがる。」

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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-04

お染と風邪とお札

江戸時代には、風邪が大流行すると
そのたびに名前がつけられていた。
稲葉風邪、お駒風邪、谷風邪、お七風邪、といった具合だ。

当時の人たちはもちろん知る由も無いが、
それらの風邪は感染力の強さからみて
インフルエンザだったと考えられている。

その後も名づけの習慣は続き、
明治23年から24年にかけて流行した風邪は「お染風邪」と呼ばれた。
お染とは浄瑠璃や歌舞伎で有名な物語のヒロインで、
許婚がありながら久松という男とたちまち恋に落ち、熱を上げてしまう。
そんな役どころのイメージから風邪の名前にされたのだろう。

お染風邪が流行してからというもの、
人々は家の玄関や軒下に「久松るす」という
風邪除けのお札を貼ったという。
あなたの好きな久松さんは留守でいませんよ、
だからお染さんは入って来ないで、という意味だ。

インフルエンザウイルスさえまだ発見されておらず、
効果的な対策もない時代。
多くの死者を出したインフルエンザの猛威を前にして、
人々はお札にでも頼るしかなかったのだろう。

マスクなどの予防手段が日本で普及するのは、
大正時代の「スペイン風邪」からである。

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藤本宗将 17年1月21日放送

170121-05
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竹鶴政孝と風邪とリンゴジュース

日本におけるウイスキーの父、竹鶴政孝。
彼が北海道・余市で興したニッカウヰスキーは、
はじめ「大日本果汁株式会社」という名前だった。

ウイスキーづくりには長い年月がかかる。
その間のつなぎとしてリンゴジュースを販売し、
経営を支えようとしたのだ。

しかし高価な果汁100%リンゴジュースは
当時あまり売れなかった。
そこで彼はリンゴジュースの
高い栄養価を前面に押し出して宣伝。
風邪をひいたときの民間療法として、
ようやくリンゴジュースは普及していった。

当時、宣伝の一環として
ニッカから発行された一冊の本がある。
医師がリンゴの効能について記したものなのだが、
随所にジュースの広告が入っている。

商品を売るために健康本を出版する。
宣伝マンとしての竹鶴もなかなかのものだ。

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藤本宗将 16年12月10日放送

161210-05

1936年2月26日の雪

1936年2月26日。
雪の東京は、その日クーデターで血に染まった。
世に言う2・26事件。

作家の尾崎士郎はこの日のことを回想し、
こう書き残している。

「雨でなくてよかった。小春日和でなくてよかった。
 雨だったらどんなに陰惨な記憶を残したであろう。
 小春日和であったら私は生きることに望みをうしなったかも知れぬ。
 しかし、幸いにも雪の日であった。」

雪で覆ってしまいたいような日が、
歴史には存在する。

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藤本宗将 16年11月12日放送

161112-01

岩倉具視と洋服

明治4年。岩倉使節団が
まず到着したアメリカで注目の的になったのは、
髷と和服姿の岩倉具視だった。

熱烈な歓迎に上機嫌だった岩倉は、
真実を聞かされ愕然とする。
アメリカ人たちは、
未開の国の奇妙な風俗を見物するために
集まっていたのだ。

ついに岩倉は断髪。装いも洋服に改めた。
そのニュースが伝わると
日本でも洋服を着る習慣が広まることになった。

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