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藤本宗将 15年7月18日放送

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ホームランの話 藤村富美男(ふじむらふみお)

かつて「物干し竿」と呼ばれた長いバットで
ホームランを量産した打者がいた。
ミスタータイガースこと、藤村富美男。

ヒントにしたのは知人に誘われたゴルフだった。藤村曰く、

「長いものでシバいたほうが、
 遠心力があるからよく飛ぶだろうと」

しかし、理由はもうひとつあった。

「川上の赤バット、大下の青バットという時代。
 拮抗してなにか特徴のあるバットはないかいな、とね」

そんな目立ちたがりは、
選手兼監督になってからも変わらなかった。

1956年6月24日の対広島戦。
1点ビハインドで迎えた9回裏2死満塁の場面で
3塁コーチについていた藤村は、球審にこう告げたのだ。

 「代打、ワシ!」

スタンドの観客は大喝采。
そして打席に入って3球目。藤村の物干し竿が一閃すると、
打球はレフトスタンドへと消えていった。

それは日本球界史上2人目の代打逆転サヨナラ満塁本塁打。
そして、藤村にとって現役最後の本塁打。
ショーマンシップあふれるプロの生き様は、
最後の最後まで派手だった。

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藤本宗将 15年5月10日放送

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母を生きた人 マリア・テレジア

「子供は何人いても多すぎることはないわ」

かつてそう言ったのは「女帝」マリア・テレジア。
マリー・アントワネットら16人の子をもうけ、
政略結婚によって国を守ろうとした彼女らしい。

だが、彼女が暮らした宮殿を訪ねると印象が変わる。
子供たちの絵を飾った部屋。
親子手作りの飾り付けが残る部屋。
そこには大家族の笑い声があふれていたのだろう。

「子供は何人いても多すぎることはないわ」

ひとりの母親の言葉として聞くと、
また違った思いが伝わってくる。

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藤本宗将 15年4月11日放送

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チェ・ゲバラ

革命家というものは、やはり情熱的なのだろうか。
キューバ革命の英雄チェ・ゲバラは
ゲリラに志願してきた女学生にひとめぼれをした。
のちに妻となるアレイダ・マルチ。

あるときゲバラが腕を骨折すると、
アレイダは持っていたスカーフで彼の腕を吊って手当てした。
それがよほど嬉しかったらしい。
ゲバラはのちにこう書き残している。

絹のスカーフ。これは特別なものだ。
腕を怪我したのではないかと彼女がくれた。
愛のこもった包帯として。
厄介なのは、僕が頭を割られたときの使い道だ。
だが、いい方法があった。
頭に巻いて顎を支えれば、
そのままスカーフとともに墓に行ける。
死んでも忠実でいられる。

その後ゲバラは新たな革命をめざし単身ボリビアに渡るが、
捕えられて命を落とす。
死後30年してようやくキューバに戻った遺骨のそばに、
妻はそっとスカーフを納めた。

最後まで、愛と革命に忠実な人生だった。

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藤本宗将 15年3月21日放送

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Spring has come! 菅原道真の春

 東風(こち)吹かば 匂ひおこせよ 
 梅の花 主なしとて 春な忘れそ

主人がいなくなっても、春を忘れるな。
大宰府に流されることになった菅原道真は、
庭先の梅を眺めながらこの歌を詠んだ。

春風を待って花を咲かせる梅は、
かつて「風待草」とも「春告草」とも呼ばれていた。
古代の日本人にとって、
春を告げる花といえば桜よりも梅だったのだ。

道真に愛情をかけられた梅は主人を慕い、
九州まで飛んでいったという飛梅(とびうめ)伝説がある。

いまも大宰府天満宮にある飛梅は、
白い八重の花で春の到来を知らせてくれる。
境内にある6千本の梅の中で
最も早くほころぶのだそうだ。
千年前の約束を、梅はまだ忘れていない。

今年の開花は、昨年より半月ほど早かったそうだ。
また、新しい春がきた。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と運

「運が良かっただけ」

その経営者は、あくまで謙虚だった。

「努力したから成功するとは限らないと思っている。
 苦労だって経営者ならしていない人などいないから、
 自分が特に苦労したとは思わない。
 振り返ると何となくこうなっていた。
 運が良かっただけだ」

そういえば彼が育てた会社の名前は、
「運を天に任せる」とも読める。

数々のゲームで世界を席巻した任天堂と山内溥。

たしかにゲームに勝つためには、運と実力が必要だ。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と横井軍平

任天堂がまだ花札・トランプメーカーであった頃、
工学部卒の新人が入社してきた。

彼は設備機器の保守点検を任されていたが、
暇つぶしに格子状の伸び縮みするおもちゃをつくって
遊んでいたのを社長の山内溥に見つかった。

社長室に呼び出された社員は叱責を覚悟したが、
山内の言葉は「それを商品化しろ」だった。

物をつかめるように改良を加えて発売された
「ウルトラハンド」は140万個も売り上げ、
コピー品が出回るほどの大ヒット商品に。

横井軍平というその社員のために山内は開発課をつくり、
そこから「ゲームウオッチ」や「ゲームボーイ」が生まれることになる。

遊び心を評価する。
そんな社長がいたからこそ、多くの才能が活躍できた。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と運

1992年、メジャーリーグのシアトル・マリナーズは経営危機に瀕していた。
身売りされればシアトルからの移転も考えられる状況。

そんなとき地元の要請に応え、ポケットマネーで
マリナーズ買収に乗り出したのが当時の任天堂社長・山内溥だった。
彼の思いとしては、任天堂の米国法人であるNintendo of Americaを
長年置かせてくれたシアトルへの恩返し。
しかし一方で外国人がオーナーとなることに対する世論の反発もあり、
買収の承認を得られるかどうかは微妙な情勢だった。

そこで経営には口出ししないことを米国民にわかってもらおうと、
山内は記者会見でこう発言した。

「64年の人生で野球を観戦したことがない。興味がないんだ」

こうしてメジャーリーグ初の非白人オーナー、
そして野球にまったく興味のないオーナーが誕生した。
実際に山内は「飛行機が嫌いだから」という理由で
マリナーズの本拠地セーフコ・フィールドに一度も足を運ぶことはなかった。

そんなオーナーが唯一チームに対して口出しをしたのは、
イチローがメジャーリーグ挑戦を表明したとき。
何が何でも獲れ、という山内の号令によって「マリナーズのイチロー」は生まれた。
入団後の彼がチームに多大な貢献をしたことは説明する必要もないだろう。

まさに山内オーナーのファインプレー。
野球に興味がなくても、ゲームをおもしろくすることにかけては一流だった。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と京都

京都には、独創的でユニークな経営の企業が多いと言われる。
任天堂もそのひとつ。

しかし京都に本拠を置く理由をインタビュアーが尋ねたところ、
当時の社長・山内溥はいつになく返答に窮した。

「お墓も京都にあるし…
 私が住んでいる家も祖父が建てたもので…
 仏壇もあるし…」

どんな都市にも、ユニークな企業はある。
ユニークでさえあれば、どこにいても世界と戦える。
彼はそう言いたかったのかもしれない。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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山内溥と囲碁

任天堂の元社長・山内溥。
彼は世界的なゲーム会社・だったのにもかかわらず、
自分ではゲームをほとんどやらなかった。
唯一手を出したゲームが、囲碁ゲーム。大の囲碁好きだったからだ。
アマ六段だったが、実力はそれ以上とも言われていた。
2005年には囲碁界への貢献が認められ、
日本棋院の関西総本部長にも就任しているほどだ。

そんなわけで、囲碁ゲームに特別なこだわりを持っていた山内。
噂によれば、任天堂が囲碁ゲームを出す際は
コンピュータが山内と勝負して勝たなければならないという
暗黙のルールがあったという。
いわゆる「任天堂伝説」のひとつだから真相のほどはわからないが、
確かに任天堂は2008年になるまで
一度として囲碁ゲームを発売することがなかった。

ちなみにコンピュータ囲碁の実力は、
現在でもようやくアマ四段から六段程度にすぎないそうだ。
囲碁の盤面の広さは将棋・チェス・オセロと比較して広く、
打ち手にも感覚的な部分が多いことなどあって、
強いコンピュータプログラムをつくることはとても難しい。
将棋ではコンピュータがプロ棋士を次々と下しているのに対して、
囲碁における人間の優位はいまだに揺らいでいない。

つまり、当時アマ六段の山内に勝てというのは
かなりの「無茶ぶり」だったわけだ。
開発を担当する社員にとっては、
きっと彼の姿が強大なボスキャラに見えたに違いない。

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藤本宗将 14年8月17日放送

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torne
山内溥と岩田聡

1949年、東京で大学生活を謳歌していた山内溥は
京都に呼び戻された。祖父が病に倒れたため、
22歳の若さで家業の任天堂を継ぐことになったのだ。

そのとき彼が条件として挙げたのは
「任天堂に山内家の人間はひとりでいい」ということ。

ビジネス経験などない若者による経営改革。
その後も山内は優秀で個性的な人材を
大胆に登用していった。

2002年に社長を退くときも、
かつて社外から見いだした岩田聡を後継者に指名した。
このとき岩田は入社2年目。

常識にとらわれない発想と、
人を見る目があるからこそできることだった。

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