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藤本宗将 14年2月23日放送


Hyougushi
高山たつ

山岳信仰の対象として
人々から崇拝を集めてきた富士山。
しかし長いあいだ女性には登山が許されなかった。

女性たちは2合目にある
御室浅間神社で足止めされ、
近くに設けられた「女人天拝所」から、
富士の頂を眺めたという。

そんなルールが破られたのは天保3年のこと。
高山たつという女性がマゲを結い、
男装してこっそり山に入る。
雪の積もる険しい道のりに凍えながら、
なんとか頂上にまで辿り着いた。

その40年後に禁制は解除され、
いまでは誰もが富士山に登ることができる。
社会の至るところにあるガラスの天井。
そのひとつひとつに、
戦ってきた女性たちの物語がある。

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藤本宗将 14年2月23日放送


kirainet
川越広四郎と後継者たち

銭湯と聞いて日本人が思い浮かべるのは、
なんといっても壁にペンキで描かれた富士山。
そんなイメージができあがるきっかけとなったのは、
大正元年のことだった。
東京は神田猿楽町にあった銭湯「キカイ湯」が増築をする際、
壁に絵があったら子どもたちが喜ぶだろうと
油絵画家の川越広四郎に依頼したことによる。

考えた末、川越が描くことにしたのが富士山。
静岡県掛川市で生まれ育った川越は、
幼い頃にいつも見上げていた富士の壮大な姿を、
東京の子供たちに見せたかったのだろう。
この「富士山風呂」はたちまち評判を呼び、
やがて真似をする銭湯が続出したという。
時は過ぎ、街の銭湯の多くが姿を消していくなか、
川越広四郎の志を受け継ぐ絵師も年々減り
いまや日本で数名しか残っていない。

けれどこの文化を次の世代に受け継ぐ人もいる。
女性絵師・田中みずきさんだ。
絵師の修行はラクではない。
入門者は、最初の3年間は空の色を青く塗ることだけを許され、
プロの絵師の仕事を見て学ぶ。
つぎに、雲と、徐々に全体を描くことを許される。
今年、9年間の見習いを終えて独立した田中さん。
彼女がペンキ絵師の道を志したのも、
富士山の姿に魅せられたからだそうである。
「百年後に残るような背景画を描きたい」と田中さんは語る。
大きくそびえる富士山は、いつも人に高い志をくれる。

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藤本宗将 13年12月29日放送



鬼が笑った話 馬場信春

戦国時代。
鬼と呼ばれた武将はたくさんいたが、
なかでも武田家に仕えた馬場信春は
70戦してかすり傷ひとつ負わず、不死身と恐れられた。

だが、鬼にも最期のときが来る。

長篠の戦いで孤軍奮闘するものの、味方は総崩れ。
時代の移ろいをどう感じたのだろうか。
部下に退却を告げた馬場は、
にっこり笑ったと記録に残されている。

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藤本宗将 13年12月29日放送



鬼が笑った話 土光敏夫

経営者としての手腕を買われて行政改革に取り組み、
「行革の鬼」と呼ばれた土光敏夫。
人並外れた行動力と猛烈なまでの働きぶりで、
日本の再建に奔走した。

そんな土光が、晩年に笑いながらこんなことを語ったという。

「もし、来世に天国と地獄があるとすれば、
 僕はためらいなく地獄行きを望むね。

 極楽はたしかに楽しいだろうが、
 そんなラクなところでのんびりするのは性に合わない。
 やっぱり地獄の、それも地獄の釜焚きでもして、
 その釜の底から日本の動きを監視していく――
 あの世に行っても、多分、そんなところでしょう」

彼の目に、いまの日本はどんなふうに映っているのだろう。

鬼に笑われないような、来年にしなければ。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

人の体内は、いちばん身近な未知の世界。
それを覗き見ることにはじめて成功したのは、
19世紀半ばのドイツの内科医、アドルフ・クスマウル。

人間の内蔵を見るには、手術しか方法がなかった時代。
なんとか切らずに見ることができないかと考えるうち、
クスマウルは口から長い筒を入れて胃の中を覗くことを思いついた。

しかし完成したのは現在の内視鏡とは違い、
まったく曲がらない金属製の筒。

そこでクスマウルが連れてきたのは、中国人の大道芸人。
剣を飲み込む要領でこの筒を飲ませようと考えたのだ。

芸は身を助けるというが、
この芸は医学の進歩を助けてくれた。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

人間の体の中を見たい。
その願いに光がさしたのは、1895年のこと。
しかもそれは医学ではなく、物理学の成果としてだった。
物理学者ヴィルヘルム・レントゲンが、
物体を通り抜ける奇妙な光を発見したのだ。

レントゲンは、
早速さまざまな写真をX線で撮影した。

そのうち妻の手を写した1枚がいまも残っている。
写真には骨がはっきりと浮かび上がり、
X線を通さない金の指輪だけが黒く映っていた。
これを見た彼女は、
「自分の死体を見た気分だわ!」と叫んだという。

だがX線写真は医学に応用され、
むしろ多くの人々を死から救うことになった。

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藤本宗将 13年11月30日放送



インナーワールド アドルフ・クスマウル

「胃の中を撮影するカメラをつくってほしい」

カメラメーカーの主任技師であった杉浦睦夫のもとに、
そんな奇妙な依頼が舞い込んだ。
依頼主は外科医・宇治達郎。
杉浦を出張先まで追いかけて熱心に説得したが、
多忙な彼からいい返事はもらえなかった。

しかし東京に戻る列車の中で運命は変わる。
その日に大型台風が関東を直撃。
一晩中閉じ込められて話し合ううち、議論が白熱。
ついにふたりは開発を決心する。

そして1950年、世界初の胃カメラが完成した。

異質なものがぶつかって、イノベーションは生まれる。
そのための密室を運命が用意したのかもしれない。

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藤本宗将 13年11月30日放送


robinvanmourik
インナーワールド アドルフ・クスマウル

体の断面を撮影するCTスキャナ。
この医学史上最大級の発明は、
「ビートルズによる最も偉大な遺産」といわれる。

CTの発明者であるゴッドフリー・ハウンズフィールドの勤務先が
EMI、つまりビートルズのレコード会社であり、
その莫大な売上が研究資金をまかなっていたからだ。

何しろハウンズフィールドの研究は長い苦難の連続だった。
X線写真とコンピュータの画像処理を
組み合わせるアイデアを思いついたものの、
医学の知識がないため開発は手探り。
それでも彼は休みなしで連日作業に没頭した。
上司が研究室に鍵をかけ、やっと休暇をとらせたほど。

ビートルズがいなかったらCTは生まれなかった、と人は言う。
だがいくら資金があったとしても、
この努力家のサラリーマンがいなければCTは生まれなかったはずだ。

1979年。彼の地道な研究に対し、
ノーベル生理学・医学賞が贈られている。

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藤本宗将 13年9月22日放送


© Glenn Gould Foundation
ナンバー2の男 グレン・グールド

クラシック界の異端児と言われたピアニスト、グレン・グールド。

椅子の高さを極端に下げ、背中を丸め、演奏しながら歌い、体を揺する。
リズム、テンポ、アクセント…
どれもが強烈で躍動感に満ちているが、音色は驚くほどデリケート。
決してスタンダードとは言えなかったが、
その独特の演奏は多くの人を魅了した。

彼の演奏のなかに、カレル・アンチェルが指揮するトロント交響楽団と、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲5番『皇帝』を共演したものがある。

このとき、もともと予定されていた奏者はグールドではなかった。
本来の奏者は、アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ。
グールドと並ぶ世界屈指のピアニストであったが、
そのスタイルは対照的でミスタッチの無い演奏を信条とした。

しかし完璧主義者のミケランジェリは、調律の問題を理由に演奏をキャンセル。
代わりに急遽グールドが登場することとなったのだ。
このとき,グールドはこんな言葉を漏らしたという。

「なんと、ナンバー1のピアニストがナンバー2の代役とはね!」

ただし指揮者アンチェルの感想は、ちょっと違っていたようだ。

「ミケランジェリ? グールド?
 あなた方はどこからそんな変な人ばかり見つけてくるんだい?」

指揮する立場からすれば、どちらも扱いづらい変人という点で
大差はなかったのかもしれない。

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藤本宗将 13年9月22日放送


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ナンバー2の男 テンジン・ノルゲイ

エベレストに初登頂したのは?と問われると
「エドモンド・ヒラリー」と答える人がほとんどだろう。
だがそのときシェルパとして
テンジン・ノルゲイも登頂を果たしている。

下界に戻ってきた二人を迎えたのは、
熱狂的な賞賛と、ある決まりきった質問だった。

「どちらが先に頂上に立ったのですか?」

しかし二人は「同時」としか答えなかった。
どちらかをナンバー2にはしない。
それはふたりが、世界の頂で交わした気高き紳士協定だった。

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