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藤本宗将 13年9月22日放送


Macanadas
ナンバー2の男 スティーブ・ジョブズ

アップルの創業者であるふたりのスティーブ、
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアク。

当時コンピュータ業界で尊敬を集めていたのは、
天才エンジニアであるウォズニアクのほう。
ジョブズはあまり評価されておらず、
彼のことを口先だけの詐欺師だと陰口をたたく者さえいたほどだ。

それぞれの評価はともかく、ふたりがガレージでつくりあげた
史上初のパーソナルコンピュータは評判を集め、アップルは急成長していった。

やがて設立から20年が経ち、
大企業となったアップルは社員番号制度を導入することになった。
事件は、そのとき起こる。
ふたりのスティーブが、ともに1番を欲しがったのだ。

どちらも創業者とはいえ、社員番号が同じというわけにはいかない。
検討の結果、1番はウォズニアクに与えられた。
傲慢なジョブズに1番を与えれば、さらに増長すると会社は考えたのだ。

ジョブズはその決定に猛然と抗議したが、訴えは聞き入れられず。
しかしナンバー2となることに納得しなかったジョブズは、
社員番号を「0」とすることでようやく妥協した。
もっとも社員バッジにそう書かれただけで、
会社のシステム上はあくまでも2番だったのだが。

のちに世界を変えたとまで言われ、唯一無二の存在になった男は、
誰よりナンバー1にこだわっていた。
絶対に2番なんかじゃダメだったのだ。

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藤本宗将 13年8月11日放送



帰りたくなる話 津太夫

日本人初の世界一周。
その偉業を成し遂げたのは、憧れや冒険心ではなく、
東北に生まれ育った男たちの望郷の念だった。

1793年、仙台藩の船乗りであった津太夫らは嵐で遭難。
ロシア人に助けられてシベリアで暮らしていたが、
やがて帰国を望み大陸を西に向かう。

大西洋から太平洋を通り、
ちょうど地球を一周するかたちで日本へ。
宮城に帰れたのは、遭難から13年後。

故郷とは、それでも帰りたい場所だった。

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藤本宗将 13年8月11日放送



帰りたくなる話 帰りたくなる話 デニー友利

日本名は「友利 結」。
アメリカ名はローレンス・フランクリン・デニー。
しかしその投手のことは、「デニー友利」という
登録名で覚えている人のほうが多いかもしれない。

沖縄県で生まれた彼は、1986年のドラフト会議において
横浜大洋ホエールズからドラフト1位指名を受けた。沖縄からはセリーグ初。
ハーフという生まれによってつらい思いもしてきた少年が、
突如として地元の期待を背負うことになった。
しかし、なかなか芽がでない。初勝利は9年目。
そんな彼を支えたのは、「このままでは沖縄に帰れない」という思いだった。

大洋からトレードで西武ライオンズへ。そしてふたたび古巣・横浜へ。
中継ぎ投手として活躍したが、2004年には自由契約となる。
それでも彼はまだ故郷に帰れないと感じていたのだろうか。
アメリカに渡り、ボストン・レッドソックスとマイナー契約する。
しかしメジャーには昇格できないまま彼の挑戦は終わった。

その年の秋、沖縄に帰省していたデニーのもとに、
一本の電話がかかってきた。声の主は、落合博満。
当時、沖縄でキャンプを張っていた中日の監督だった。
「キャンプを見に来いよ」
軽い調子で誘われて出かけたところ、
いきなり「この中から好きな数字を選べ」と背番号を選ばされた。
普段着のまま、そこで即席の入団会見。

つらい思い出も多い場所。けれどそこは、野球と出会った場所。
そして最後のチャンスをつかんだ場所になった。

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藤本宗将 13年7月27日放送


ROSS HONG KONG
眠りの話 阿佐田哲也の病

「麻雀放浪記」の作者・阿佐田哲也のペンネームは、
麻雀で徹夜を繰り返していた頃に
「朝だ!徹夜だ!」と言ったことに由来する。

けれど、あるときから徹夜ができなくなった。
ナルコレプシーという病気で苦しむようになったからだ。
突然強い眠気に襲われ、何をしていても眠ってしまう。

麻雀の途中でも一巡するごとに眠り、
また起こされては寝ぼけたまま牌を切る。
友人だった井上陽水によれば、
横にあったすし桶のトロをつまんで切ったこともあったという。
つかめない人だよね、と陽水は笑う。

病の苦しみを感じさせないポーカーフェイス。
彼は天性のギャンブラーだった。

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藤本宗将 13年7月27日放送



眠りの話 左甚五郎の猫

日光東照宮の東回廊。奥宮(おくみや)の入り口に、
「眠り猫」と呼ばれる有名な彫刻がある。

一説によれば、日の光を浴びて眠る猫の姿で
「日光」を表現しているともいう。

しかし作者とされる名匠・左甚五郎には
実在したという証拠がない。

それは夢だったのか。
ただ、素晴らしい作品だけが現実に残されている。

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藤本宗将 13年7月27日放送


F1-history
眠りの話 シューマッハのスタート

1991年8月23日、F1ベルギーグランプリ初日。
ひとりのドライバーが、念願のF1デビューを迎えていた。

ピンチヒッターとして突然転がり込んできたビッグチャンス。
しかし、緊張のピークであるはずの予選スタート前、
この新人はとんでもないことをやらかした。

当時のチームマネージャーはこう証言する。
「これから神経を研ぎ澄ませてタイムアタックしなければならないのに、
 この男はとてもリラックスしていたんだ。
 コクピットで居眠りする奴なんて聞いたことがない!」

だが本当に驚くのはスタート後だった。
下見もろくにしていないコースを彼はこともなげに攻略。
決勝こそリタイヤに終わったものの、
目の覚めるような走りで関係者の度肝を抜き、
わずか一戦でトップチームに引き抜かれた。

ミハエル・シューマッハ22歳のデビューレースであった。

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藤本宗将 13年3月16日放送


milanissimo
導く言葉 1 アリゴ・サッキ監督

ACミラン監督をつとめたアリゴ・サッキ。
彼は80年代後半「ゾーンプレス」という戦術を生み出し、
サッカーに革命を起こした。

相手から組織的にボールを奪い、攻撃につなげる。
そのために必要とされるものは数多い。
高い運動能力と技術。スタミナ。そして献身的な精神。

そんな高度な戦術を浸透させるための練習もまた、
高度で厳しいものだった。
これじゃ全然楽しくありません、と選手が不平をもらすほど。

しかしサッキは、平然と言い放ったという。

 「楽しむのはこっちの役割じゃない」

そのかわり、攻撃的サッカーによるミランの快進撃は
熱狂的な観客をずいぶんと楽しませた。

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藤本宗将 13年3月16日放送



導く言葉 イビチャ・オシム監督

かつてJリーグでジェフユナイテッド千葉を率い、
日本代表監督も務めたイビチャ・オシム。

彼のめざしたスタイルをひとことで言えば、「走るサッカー」。
試合でも、練習でも、とにかく選手を走らせる。
走ったぶんだけ彼の率いるチームは確実に強くなっていった。

とはいえ長いシーズンを闘うためには、
身体を休めることも必要だ。
あるとき選手たちに二日間の休みを与えることになったが、
そんなときでさえオシムはこう言った。

 「忘れないでもらいたい。休みから学ぶものはない」

走っていないときも、プレーのことを考えつづけよ。
プロならば、すべてをサッカーに捧げよ。
それがオシムの考えだった。

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藤本宗将 13年3月16日放送


gordonflood.com
導く言葉 アレックス・ファーガソン監督

25年以上に渡ってマンチェスター・ユナイテッドを率いる
サッカー監督、アレックス・ファーガソン。

マンチェスター・ユナイテッドといえば
世界有数のスター軍団。
カントナ。ベッカム。クリスティアーノ・ロナウド。
ファーガソンがこれまで育ててきた教え子たちは、
卓越した技術をもった選手ばかりだ。

それでもファーガソンは、
スーパースターたちに
地味で基礎的な練習を何度も徹底的に繰り返させる。

 「練習は常に完璧なプレーを
  約束するものではないかもしれない。
  だが、より良いプレーを約束することは間違いない」

数多の才能を束ねる求心力は、強い確信から生まれる。

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藤本宗将 13年3月16日放送


duycomposer
導く言葉 ジョゼ・モウリーニョ監督 1

ジョゼ・モウリーニョが
本格的にサッカーの指導をすることになった最初のクラブは、
決して強くない地元のジュニアチーム。

しかもライバルチームには、
若き日のフィーゴやルイ・コスタといった
才能あふれる選手がいた。

「勝てるはずがない」と尻込みする選手たちに、
モウリーニョは勝てると信じ込ませることからはじめた。
そして、そのための的確な戦術を与えた。

ひとつ勝つたび、少年たちの顔つきが変わる。
気がつけばチームは連勝街道をひた走っていた。

とはいえ永遠に勝ちつづけることはできない。
連勝は、14でストップする。

負けた翌日、肩を落として練習に現れた選手たちに、
モウリーニョからあるものが手渡された。
配られたのは、メダル。
そこにはこんな文字が刻まれていた。

 「トータル1260分間勝ち続けたことを讃える」

手にした自信と誇りを忘れるな。それがモウリーニョの教えだった。

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