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蛭田瑞穂 13年9月14日放送

堀辰雄と周辺の人々③

堀辰雄には師と仰ぐ人物がふたりいる。
ひとりは芥川龍之介。もうひとりが室生犀星。

堀はふたりの師を深く敬愛したが、
そのふたりも殊のほか堀に目をかけていたという。

特に室生犀星は公私に渡って堀を助け、
彼の死後も残された夫人を支え続けた。

室生犀星は堀辰雄についてこんな言葉を残している。

 ふだん彼と話をしていても、
 何か堀の気に入りそうなことを言ってやりたい、
 そういうことを対手に考えさせる、
 妙な得のあった人であり
 誰にも好かれるような得を持っていた。

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蛭田瑞穂 13年9月14日放送



堀辰雄と周辺の人々④

堀辰雄の代表作『風立ちぬ』のタイトルは
フランスの詩人ポール・ヴァレリーの
詩の一節から取られている。

 Le vent se lève, il faut tender de vivre.
 風立ちぬ、いざ生きめやも

「生きめやも」とは「生きなければならぬ」の意味。
これは堀辰雄自身の生涯の課題でもあった。

堀が24歳で発表した処女作品集『不器用な天使』。
そこに収録された詩「病」はこう詠い出される。

 僕の骨に止まってゐる 小鳥よ 肺結核よ

彼は肺結核と闘い続け、生き続けた。
それによって堀辰雄の文学は形づくられたのだ。

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蛭田瑞穂 13年9月14日放送



堀辰雄と周辺の人々⑤

堀辰雄は芥川龍之介、室生犀星という
ふたりの師にめぐまれたが、
堀自身も後進の面倒をよく見た。
作家の中村真一郎も堀辰雄の知遇を受けたひとり。

中村は堀辰雄の元に出入りし、
時には買い物に付き添い、時には家の留守番をした。
書き上げた作品に対して、助言を仰ぐこともあった。

中村はそんな堀との関係を、
「作家になるために最も重要な自己形成の時期の、
想像外に遠慮のない身近な関係」と述懐している。

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蛭田瑞穂 13年9月14日放送



堀辰雄と周辺の人々⑥

若い頃の堀辰雄が芥川龍之介を強く慕ったように、
堀辰雄に想いを寄せた若者がいた。
詩人の立原道造である。

東大在学中に建築家として頭角を現しながら、
堀辰雄との出会いによって文学に傾倒。
済んだ魂を持つ詩人として注目された。

しかし25歳で、堀も患った肺結核によって
この世を去る。

死後、堀辰雄は夭逝した弟子のために、
「立原道造全集」を編纂した。

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蛭田瑞穂 13年9月14日放送



堀辰雄と周辺の人々⑦

小説家福永武彦は1941年、
軽井沢で堀辰雄に出会い、彼の薫陶を受けた。

そのことを福永は後に
「一種の魂のリアリズム」を学んだと書いている。

そして福永は「魂のリアリズム」を主題に据え、
処女長編『風土』を書き始める。

全3部作の小説『風土』が完成したのは1957年。
報われない男女の愛というストーリーの中に、
福永文学の重要なテーマとなる、
愛や孤独、死などが提示されている。

堀辰雄との出会いから16年の歳月を経て、
福永の目指す「魂のリアリズム」は完成した。

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蛭田瑞穂 13年7月13日放送



ワールドカップ第1回大会①

FIFAワールドカップの初代優勝カップは
「ジュール・リメ・トロフィー」と呼ばれる。

ワールドカップ開催に尽力したFIFA第3代会長
ジュール・リメの功績を讃えてそう名づけられた。

ジュール・リメの懸命の説得にもかかわらず、
1930年の第1回ウルグアイ大会に出場したのは
南米を中心としたわずか13カ国だった。

それから80年後、ワールドカップ参加国は
予選も含め200を超え、
テレビ観戦者数はオリンピックをも凌ぐ、
世界最大のスポーツイベントへと成長した。

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蛭田瑞穂 13年7月13日放送



ワールドカップ第1回大会②

1930年にウルグアイで開催された
第1回FIFAワールドカップ。
大会を制したのは地元のウルグアイ代表だった。

キャプテンを務めたのは、
当時世界最高のプレイヤー、ホセ・ナサシ。
チームは司令塔ナサシの叫び声に合わせて
ボールを前線へと運び、
相手チームのゴールネットを次々揺らした。

ホセ・ナサシは言う。

 ピッチというのは、
 漏斗(じょうご)のようなものだ。
 先に向かってボールを運べば、
 自然とペナルティエリアがあらわれるのさ。

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蛭田瑞穂 13年7月13日放送



ワールドカップ第1回大会③

1930年に開催された
第1回FIFAワールドカップウルグアイ大会。
7月13日におこなわれた
開幕第1戦のフランス対メキシコ戦。

前半19分にフランスのリュシアン・ローランが
ゴールを決めた。これがワールドカップ史上初の
ゴールである。

それから68年後の1998年。
フランスで開催されたワールドカップで
地元のフランス代表は参加10回目にして
悲願の初優勝を遂げた。

90歳になったリュシアン・ローランは、
その「初」の瞬間もしっかりと見届けていた。

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蛭田瑞穂 13年7月13日放送



ワールドカップ第1回大会④

1924年のパリ・オリンピックで、
ヨーロッパの人々は初めてウルグアイ代表チームの
サッカーを目の当たりにした。

リズムとスピードにあふれるウルグアイの
サッカーは、ロングボールを放り込む
ヨーロッパの単調なサッカーを翻弄した。

フランスの作家アンリ・ド・モンテルランは
その驚きをこう記している。

 これこそ真実のサッカーだ。
 これにくらべたら僕らのサッカーは
 学校のひまつぶしでしかない。

その6年後に第1回目のワールドカップが
南米の小国ウルグアイで開催されることになるが、
サッカーのレベルを考えれば、
それも当然のことであった。

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蛭田瑞穂 13年7月13日放送



ワールドカップ第1回大会⑤

1930年に開かれた第1回FIFAワールドカップ
ウルグアイ大会。ウルグアイ代表の
ハーフバック、ホセ・アンドラーデは
主力選手として自国の優勝に貢献した。

準決勝のユーゴスラビア戦では
頭によるリフティングでボールを運び、
その間に相手選手を5人かわして
50メートル以上も進むという離れ業も披露した。

ワールドカップでの「5人抜き」といえば
ディエゴ・マラドーナが有名だが、
マラドーナの50年も前に、
ホセ・アンドラーデという男がいた。

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