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蛭田瑞穂 13年5月25日放送

STAR WARS EPISODE 1977②

少年時代のジョージ・ルーカスにとって
最大のヒーローはテレビ番組のフラッシュ・ゴードンだった。

筋骨隆々の主人公フラッシュ・ゴードンが宇宙を舞台に
悪の帝王と戦う。その姿に少年は心を躍らせた。

ルーカスは語る。

 僕が人生の最初に影響を受けたのは
 「フラッシュ・ゴードン」だった。
 ものの見方、ものの解釈の仕方を
 僕はこのテレビ番組から学んだんだ。

この体験がのちにルーカスを
「スターウォーズ」の製作に駆り立てることになる。

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蛭田瑞穂 13年5月25日放送

Naomi Ibuki
STAR WARS EPISODE 1977③

ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」の脚本を書くにあたり、
古今東西のさまざまな神話や物語を読み漁った。

長く受け継がれてきた物語の構造を分析することで、
人々を強く惹きつけるストーリーを創作しようとした。

「スターウォーズ」のオープニングは
“A long time ago in a galaxy far,far away….”
(遠い昔、遥か離れた銀河で…)という一節で始まる。
これは“昔々あるところに…”という
おとぎ話の典型的な書き出しへのオマージュ。

ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」で
現代の新たな神話を創造したのである。

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蛭田瑞穂 13年5月25日放送



STAR WARS EPISODE 1977④

ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」のテーマ曲を
「ジョーズ」の音楽も手がけた、
映画音楽の第一人者ジョン・ウィリアムスに依頼した。

ジョン・ウィリアムスは仮編集のフィルムを観ると即座に
この映画では電子音を一切使わず、
クラシックな楽器だけで曲をつくるべきだと提案した。

スクリーンの中には暗く冷たい宇宙空間が広がる。
だからこそクラシック音楽の温かみが必要だと
判断したのである。

そして完成したオープニングテーマ。
ティンパニーと金管楽器が
壮烈に鳴り響くのを聴いた瞬間、
ジョージ・ルーカスは髪の毛が逆立つほどの
衝撃を受けたという。

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蛭田瑞穂 13年5月25日放送


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STAR WARS EPISODE 1977⑤

ジョージ・ルーカスは「スターウォーズ」の
音響効果をベン・バートという若い技術者に依頼した。

ベン・バートは日常の中にある、
あらゆる音を出すものを駆使して独創的な音をつくりあげた。

ライトセーバーの音は、映写機の作動音に
砂嵐と呼ばれるテレビの雑音を合わせたもの。

R2-D2の電子音声は金属片でドライアイスを引っ掻く音に、
長いウォーターパイプの音を加えたもの。

ベン・バートの創造性あふれるサウンドデザインが
「スターウォーズ」の世界をどれほど豊かに彩ったか。
その効果は計り知れない。

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蛭田瑞穂 13年5月25日放送



STAR WARS EPISODE 1977⑥

1961年から始まったアメリカのアポロ計画。

ジョージ・ルーカスは宇宙から帰還した
アポロ宇宙船を見て衝撃を受けた。
その表面には無数の傷や汚れがついていたのだ。

ルーカスにとってその汚れこそが
宇宙がフィクションの世界ではなく
現実の世界であることの証だった。

のちにルーカスは「スターウォーズ」に
登場する宇宙船の表面を徹底的に汚し、
SF映画に新たなリアリティーを持ちこんだ。

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蛭田瑞穂 13年5月25日放送


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STAR WARS EPISODE 1977⑦

1977年5月25日にアメリカで
「スターウォーズ」が公開されると、
映画はひとつの社会現象になった。

初日の興行収入だけで25万ドルを記録し、
8月の終わりには史上最速で1億ドルに達した。

「スターウォーズ」のヒットとともに、
それまで死んだジャンルと見なされていた
SF映画も息を吹き返した。
「スーパーマン」を始め、映画会社は
相次いでSF映画の製作に乗り出した。

1977年5月25日を境に映画の歴史は変わった。
ジョージ・ルーカスと「スターウォーズ」が
変えたのである。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送

黒澤明と七人の侍①

1990年3月26日、映画界に対する長年の功績を讃え、
黒澤明にアカデミー名誉賞が贈られた。

カリフォルニアの会場には日本からの中継映像も映され、
ふたつの「おめでとう」のメッセージが届けられた。

ひとつはアカデミー名誉賞に。もうひとつは誕生日に。
黒澤はその3日前の3月23日に
80歳の誕生日を迎えたばかりだった。

セレモニーの最後、黒澤はスピーチをこう切り出した。

わたしがこの賞に値するかどうか少し心配です。
なぜなら、私はまだ映画がわかっていない。

そんな巨匠の言葉に、会場はあたたかな拍手に包まれた。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍②

映画「七人の侍」。
黒澤は本物の時代劇をつくるという信念のもと、
徹底的にリアリズムを追求した。
撮影場所もそのひとつだった。

戦国時代の農村にふさわしい場所を探して
黒澤は3カ月に渡って全国を駆け巡り、
最終的に伊豆を撮影場所に定めた。

さらに、村の東は堀切、西は御殿場、
北の森は箱根、中心部は東京のスタジオと、
村を複数の場所に分けて、別々に撮影をおこなった。

わずか数十戸の小さな農村を描くために
そこまで労力をかける。その執念が黒澤である。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍③

映画「七人の侍」。
農民を演じたのはすべて、名もないエキストラたちだった。

黒澤は農民ひとりひとりの名前、年齢、家族構成を決め、
どんな家に住んでいるか、間取りまで細かく設定した。
そして撮影中はつねに家族単位で行動するように指示した。

やがて彼らは本物の家族同様に振る舞うようになった。
演技ではない生身の人間の姿が
「七人の侍」に限りないリアリティをもたらした。

黒澤は語る。

 あまり誰にも言われませんが、
 あの作品の功労者は村の連中なんです。
 全員が自然と村人の気持ちになっていましたからね。

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蛭田瑞穂 13年3月23日放送



黒澤明と七人の侍④

映画「七人の侍」。
撮影開始から7カ月後、撮影中止の命令が
映画会社の上層部から下された。

撮影は当初の予定から5カ月も遅れ、
その分予算は大きく膨れ上がっていた。

会社に詰め寄られた黒澤は
それまでに撮影したフィルムをつなぎ、
試写をおこなうことになった。

試写が始まると間もなく
上層部たちはスクリーンに引き込まれた。
そして物語がクライマックスを迎えようとした場面で、
突然フィルムが途切れた。

「続きはどうした」。
騒然となる上層部に対して、黒澤は答えた。

 ここから先はひとつも撮ってません。

撮影中止の命令は間もなく取り下げられ、
撮影は再開されることになった。

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