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蛭田瑞穂 12年11月10日放送



映画音楽のマエストロ⑥バート・バカラック

20世紀最大のメロディメーカーのひとり、
バート・バカラックは多くの映画音楽も手がけている。

1966年、『アルフィー』では
主題歌を担当し、グラミー賞を受賞。
『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」でも
1969年のアカデミー主題歌賞を受賞している。

長年の功績を讃えられ、バートバカラックは2008年、
グラミー賞の「永年功労賞」を受賞した。

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蛭田瑞穂 12年11月10日放送


Clod79
映画音楽のマエストロ⑦エンニオ・モリコーネ

イタリアの映画監督セルジオ・レオーネは
生涯に渡ってアメリカへの憧れをもち続けた。

出世作『荒野の用心棒』は、
アメリカの西部劇をイタリアで製作した、
いわゆるマカロニ・ウェスタン。

この映画の音楽を始め、
レオーネ作品の多くの音楽を手がけたのが
小学校時代からの親友である、
作曲家のエンニオ・モリコーネ。

厚い信頼関係によって結ばれていたレオーネとモリコーネは
先にモリコーネがつくった曲に合わせて、
映画のシーンを構想することもあったという。

セルジオ・レオーネが生涯の最後に
アメリカに捧げたオマージュ、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の
音楽ももちろんエンニオ・モリコーネが担当した。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家①太宰治

太宰治というと、
痩せぎすの小説家という印象があるが、
実は大食漢で旺盛な食欲の持ち主だった。

いちばんの好物は毛ガニで、
ある時、酔って新宿の街を歩いていた太宰は、
毛ガニをうず高く積んだ夜店を見つけると、
素手で一匹を掴み、
その場でムシャムシャ食べ始めたという。

ニワトリの解体も得意だった。
さばいたトリは骨付きのままぶつ切りし、
豪快にトリの水炊き鍋をつくった。

一方で繊細な面もあった。
箸の使い方が上手で、長い箸の先だけを使って、
きれいに魚を食べたという。

よく食い、よく飲む。
太宰はそんな作家だった。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家②林芙美子

昭和5年に『放浪記』でデビューし、
一躍時代の寵児となった林芙美子。
芙美子はその翌年憧れのフランスに渡った。

パリに下宿を借りた芙美子は、
映画やオペラに通い、美術館を巡り、
花の都の生活を満喫した。
しかし、ただひとつ報われなかったのは
日本食への思いだった。

半年間の滞在を終えた芙美子は船で神戸に着くと、
すぐに港の近くの小さなうどん屋に行き、
葱を振りかけた熱いうどんを食べた。

 天にものぼるやうにおいしい。
 たつた六銭だつたのに吃驚してしまった。

うどんの味を芙美子は日記にそう記している。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家③内田百閒

太平洋戦争真っただ中の昭和19年、
内田百閒は『餓鬼道肴蔬目録(がきどうこうそもくろく)』
という作品を書いた。

 まぐろ 霜降りとろノぶつ切り
 ポークカツレツ
 シユークリーム
 富山のますの早鮨

料理の名前だけが延々と列記されている風変わりな作品。
百閒はこの作品を
「食ベルモノガ無クナツタノデセメテ記憶ノ中カラ
ウマイ物食ベタイモノ物ダケデモ探シ出シテ見ヨウ」
と思いついたという。

百間の、食への執着心の、
なんとすさまじいことか。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家④江戸川乱歩

江戸川乱歩が酒を飲むようになったのは、
50を過ぎてから。
当然、あまり強くはなかった。

日本酒を一合飲むと赤ら顔になった。
二合飲むと動悸が激しくなった。
三合飲むと心臓が苦しくなった。

詩人の堀口大學の家で日本酒をふるまわれ、
酔ってそのまま床に寝てしまったこともある。

そんな乱歩もビールは好んで飲んだ。

 喉のかわいたときのビールは、むろんよろしい。
 ビールでは、わたしには、つまみものよりも
 薄く切った脂の多いトンカツに生キャベツが適薬である。
 風呂から上ってこれをやるのは格別。

エッセイの中で乱歩はそう記している。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送

食べる作家⑤幸田露伴

幸田露伴の文章に「供給会社」というものがある。

内容は、朝昼晩三度の炊事は面倒で
労働力の損失になる、
そこで、安い食事を供給する会社ができれば
非常に便利である、というもの。

そして露伴はこう続ける。

 清潔で迅速で上品で、少しの虚飾もなく、
 単に食事を要領よく出す。
 こういう店をたくさんつくればいい。
 大金を投じ、供給会社を各都市に設ければ、
 個人にとっても都市にとっても甚だ有益であろう。

露伴の言う供給会社こそ現代における
ファミリーレストランやファストフード店。

露伴がこの文章を発表したのは明治45年。
その先見の明に驚く。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家⑥坂口安吾

坂口安吾は無類の料理好きだった。

アンコウを丸々一尾用意し、身と肝を選り分ける。
残った部分は骨も一緒にすり潰して汁をとる。
この汁に味噌を混ぜ、身と肝とネギを入れて煮る。

アンコウ以外は味噌とネギを使うだけで、
一滴の水さえ使わない安吾流アンコウ鍋。

アンコウという名は安吾に通じる。
「共食いだ」と言って
安吾はアンコウを好んで食べたという。

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蛭田瑞穂 12年10月13日放送



食べる作家⑦谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は日本橋の蛎殻町で生まれ育った。
当時、蛎殻町から人形町にかけての一帯は
洋食、中華、寿司、鳥鍋など、
さまざまな料理店が軒を並べる
東京随一の食の界隈だった。
そんな町で育ったからか、
谷崎の食に対する興味は旺盛だった。

奇怪奇天烈な創作料理が次々登場する
『美食倶楽部』という小説も書いている。

そんな谷崎を三島由紀夫は次のように評した。

 氏の小説作品は、何よりもまづ、美味しいのである。
 凝りに凝つた料理の上に、
 手間と時間を惜しまずに作つた
 ソースがかかつてをり、
 ふだんは食卓に上らない珍奇な材料が賞味され、
 栄養も豊富で、
 人を陶酔と恍惚の果てのニルヴアナへ誘い込み、
 生の喜びと生の憂鬱、活力と頽廃を同時に提供する。

谷崎の小説の、官能的な理由がよくわかる。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家①山口瞳

作家山口瞳が建てた国立の家。
山口はその家の設計を建築家の高橋公子に依頼した。

山口が出した要望は、
「外観は倉庫。中へ入ると体育館。全体として未完成の感じ」。

数寄屋造りの日本家屋に民芸調の家具を合わせるより、
コンクリートの打ちっぱなしの住居に
西洋の骨董家具を合わせる方が洒落ている。
そんなモダンな感覚が山口にはあった。

要望通りに完成した、一見風変わりなその家を山口は大変気に入り、
自ら「変奇館」と名づけ、終の棲家とした。

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