映画音楽のマエストロ⑥バート・バカラック
20世紀最大のメロディメーカーのひとり、
バート・バカラックは多くの映画音楽も手がけている。
1966年、『アルフィー』では
主題歌を担当し、グラミー賞を受賞。
『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」でも
1969年のアカデミー主題歌賞を受賞している。
長年の功績を讃えられ、バートバカラックは2008年、
グラミー賞の「永年功労賞」を受賞した。
映画音楽のマエストロ⑥バート・バカラック
20世紀最大のメロディメーカーのひとり、
バート・バカラックは多くの映画音楽も手がけている。
1966年、『アルフィー』では
主題歌を担当し、グラミー賞を受賞。
『明日に向かって撃て』の主題歌「雨にぬれても」でも
1969年のアカデミー主題歌賞を受賞している。
長年の功績を讃えられ、バートバカラックは2008年、
グラミー賞の「永年功労賞」を受賞した。
Clod79
映画音楽のマエストロ⑦エンニオ・モリコーネ
イタリアの映画監督セルジオ・レオーネは
生涯に渡ってアメリカへの憧れをもち続けた。
出世作『荒野の用心棒』は、
アメリカの西部劇をイタリアで製作した、
いわゆるマカロニ・ウェスタン。
この映画の音楽を始め、
レオーネ作品の多くの音楽を手がけたのが
小学校時代からの親友である、
作曲家のエンニオ・モリコーネ。
厚い信頼関係によって結ばれていたレオーネとモリコーネは
先にモリコーネがつくった曲に合わせて、
映画のシーンを構想することもあったという。
セルジオ・レオーネが生涯の最後に
アメリカに捧げたオマージュ、
『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』の
音楽ももちろんエンニオ・モリコーネが担当した。
食べる作家①太宰治
太宰治というと、
痩せぎすの小説家という印象があるが、
実は大食漢で旺盛な食欲の持ち主だった。
いちばんの好物は毛ガニで、
ある時、酔って新宿の街を歩いていた太宰は、
毛ガニをうず高く積んだ夜店を見つけると、
素手で一匹を掴み、
その場でムシャムシャ食べ始めたという。
ニワトリの解体も得意だった。
さばいたトリは骨付きのままぶつ切りし、
豪快にトリの水炊き鍋をつくった。
一方で繊細な面もあった。
箸の使い方が上手で、長い箸の先だけを使って、
きれいに魚を食べたという。
よく食い、よく飲む。
太宰はそんな作家だった。
食べる作家②林芙美子
昭和5年に『放浪記』でデビューし、
一躍時代の寵児となった林芙美子。
芙美子はその翌年憧れのフランスに渡った。
パリに下宿を借りた芙美子は、
映画やオペラに通い、美術館を巡り、
花の都の生活を満喫した。
しかし、ただひとつ報われなかったのは
日本食への思いだった。
半年間の滞在を終えた芙美子は船で神戸に着くと、
すぐに港の近くの小さなうどん屋に行き、
葱を振りかけた熱いうどんを食べた。
天にものぼるやうにおいしい。
たつた六銭だつたのに吃驚してしまった。
うどんの味を芙美子は日記にそう記している。
食べる作家③内田百閒
太平洋戦争真っただ中の昭和19年、
内田百閒は『餓鬼道肴蔬目録(がきどうこうそもくろく)』
という作品を書いた。
まぐろ 霜降りとろノぶつ切り
ポークカツレツ
シユークリーム
富山のますの早鮨
料理の名前だけが延々と列記されている風変わりな作品。
百閒はこの作品を
「食ベルモノガ無クナツタノデセメテ記憶ノ中カラ
ウマイ物食ベタイモノ物ダケデモ探シ出シテ見ヨウ」
と思いついたという。
百間の、食への執着心の、
なんとすさまじいことか。
食べる作家④江戸川乱歩
江戸川乱歩が酒を飲むようになったのは、
50を過ぎてから。
当然、あまり強くはなかった。
日本酒を一合飲むと赤ら顔になった。
二合飲むと動悸が激しくなった。
三合飲むと心臓が苦しくなった。
詩人の堀口大學の家で日本酒をふるまわれ、
酔ってそのまま床に寝てしまったこともある。
そんな乱歩もビールは好んで飲んだ。
喉のかわいたときのビールは、むろんよろしい。
ビールでは、わたしには、つまみものよりも
薄く切った脂の多いトンカツに生キャベツが適薬である。
風呂から上ってこれをやるのは格別。
エッセイの中で乱歩はそう記している。
食べる作家⑤幸田露伴
幸田露伴の文章に「供給会社」というものがある。
内容は、朝昼晩三度の炊事は面倒で
労働力の損失になる、
そこで、安い食事を供給する会社ができれば
非常に便利である、というもの。
そして露伴はこう続ける。
清潔で迅速で上品で、少しの虚飾もなく、
単に食事を要領よく出す。
こういう店をたくさんつくればいい。
大金を投じ、供給会社を各都市に設ければ、
個人にとっても都市にとっても甚だ有益であろう。
露伴の言う供給会社こそ現代における
ファミリーレストランやファストフード店。
露伴がこの文章を発表したのは明治45年。
その先見の明に驚く。
食べる作家⑥坂口安吾
坂口安吾は無類の料理好きだった。
アンコウを丸々一尾用意し、身と肝を選り分ける。
残った部分は骨も一緒にすり潰して汁をとる。
この汁に味噌を混ぜ、身と肝とネギを入れて煮る。
アンコウ以外は味噌とネギを使うだけで、
一滴の水さえ使わない安吾流アンコウ鍋。
アンコウという名は安吾に通じる。
「共食いだ」と言って
安吾はアンコウを好んで食べたという。
食べる作家⑦谷崎潤一郎
谷崎潤一郎は日本橋の蛎殻町で生まれ育った。
当時、蛎殻町から人形町にかけての一帯は
洋食、中華、寿司、鳥鍋など、
さまざまな料理店が軒を並べる
東京随一の食の界隈だった。
そんな町で育ったからか、
谷崎の食に対する興味は旺盛だった。
奇怪奇天烈な創作料理が次々登場する
『美食倶楽部』という小説も書いている。
そんな谷崎を三島由紀夫は次のように評した。
氏の小説作品は、何よりもまづ、美味しいのである。
凝りに凝つた料理の上に、
手間と時間を惜しまずに作つた
ソースがかかつてをり、
ふだんは食卓に上らない珍奇な材料が賞味され、
栄養も豊富で、
人を陶酔と恍惚の果てのニルヴアナへ誘い込み、
生の喜びと生の憂鬱、活力と頽廃を同時に提供する。
谷崎の小説の、官能的な理由がよくわかる。
作家が暮らした家①山口瞳
作家山口瞳が建てた国立の家。
山口はその家の設計を建築家の高橋公子に依頼した。
山口が出した要望は、
「外観は倉庫。中へ入ると体育館。全体として未完成の感じ」。
数寄屋造りの日本家屋に民芸調の家具を合わせるより、
コンクリートの打ちっぱなしの住居に
西洋の骨董家具を合わせる方が洒落ている。
そんなモダンな感覚が山口にはあった。
要望通りに完成した、一見風変わりなその家を山口は大変気に入り、
自ら「変奇館」と名づけ、終の棲家とした。
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