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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家②立原道造

詩集『萱草に寄す』などで知られる、詩人立原道造。
一方で立原は将来を嘱望される建築家でもあった。

昭和12年、立原は浦和市の郊外、
別所沼の畔に建てる週末用住宅を構想した。
わずか5坪の小さな家を「ヒアシンスハウス」と名づけ、試案を重ねた。

その設計思想は現代のミニマム住宅の先駆けともいえたが、
立原の急逝により幻に終わる。

それから60年余りのち、さいたま市の政令指定都市移行を機に、
ヒアシンスハウス実現の機運が高まり、2004年ついに竣工される。

詩人の見た夢は60年の時を超えて、現実のものとなった。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家③石井桃子

『クマのプーさん』の翻訳や『ノンちゃん雲にのる』の
著作で知られる児童文学作家の石井桃子。
昭和33年、石井は自宅に子どものための図書館「かつら文庫」を開いた。

図書室にあてたのはいちばん日当たりがよく、出入りもしやすい1階の部屋。
庭にある大きな月桂樹を通ってすぐの場所にあった。

石井は子どもたちのために本を集め、
子どもたちもまた石井に本の感想を話すのを楽しみにしていたという。

子どもたちが実際にどんな本を喜び、
どんなふうに書いてあればおもしろいと思うのか、
それがわからなければ、いい本はつくれない。
石井桃子は著書の中でそう述べている。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送


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作家が暮らした家④澁澤龍彦

1966年、作家澁澤龍彦は北鎌倉に家を建てた。
施工にあたって澁澤は建築家に次のような要望を伝えたという。

一、当世流行にのらざること。
二、材料、仕上げ、色彩などできるだけ制限し、華美にならざること。
三、人間空間、クラシック家具及び調度に耐えられるインテリア。
四、ただし食事や衛生のための諸設備は、最新の便利さを存すること。
五、総じて古いものへの郷愁に陥らず、そのよさを再発見し、
  さらに新しいものを正当に評価すること。

完成したのは、明治の洋館風の建物。
薄いミントグリーンの外壁が鎌倉の緑に美しく映えた。

この家で澁澤は亡くなるまでの21年間を過ごした。
澁澤の亡き後も、書斎や応接間は妻によって生前のまま保たれ、
本の並びから鉛筆削りの位置まで、何ひとつ変わっていないという。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家⑤種村季弘

ヨーロッパの幻想文学や異端文化を日本に紹介し、
1960年代のアングラ文化の担い手となったドイツ文学者種村季弘。

種村が終の棲家としたのは神奈川県湯河原の高台に建つ家。
書斎の窓からはみかん畑が見下ろせ、遠くには箱根の十国峠も望めた。

その家に集まるのは個性の強い作家や芸術家たち。
毎年正月には「種村宴会」と呼ばれる新年会が開かれ、
ドンチャン騒ぎが繰り広げられた。

そんな中、誰よりも大声で笑っていたのは家の主。
そんな種村を客人たちは「笑うドイツ文学者」と呼んでいた。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送



作家が暮らした家⑥横山隆一

漫画『フクちゃん』の作者として知られる横山隆一の家は鎌倉にあった。

「民間の迎賓館」と呼ばれた横山の家には
さまざまな分野の著名人や文化人が集まった。
川端康成、岡本太郎、團伊玖磨、小津安二郎、手塚治虫・・・。

2001年に横山が亡くなった後、
その邸宅はカフェとギャラリーに生まれ変わった。

今では桜の木や藤棚、プールなど、
横山隆一の愛した庭を眺めながら、お茶を愉しむことができる。

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蛭田瑞穂 12年9月8日放送

作家が暮らした家⑦開高健

 ふつう私は小説家として暮らしている。
 ここ五年ほどは湘南海岸の茅ケ崎市である。
 海岸から三百メートルか四百メートルほどのところで
 ひっそり起居している。
 月曜日と木曜日の夕方になると二キロ離れたところにある
 水泳教室へ行くために外出するが、
 それ以外はほとんど家にたれこめたきりである。

作家開高健は1974年、東京杉並から湘南の茅ケ崎に居を移した。
58歳で亡くなるまでの15年間をそこで暮らした。

現在、開高健記念館として残るその家には
当時のままの書斎が保存されている。

壁に飾られているのは開高の愛した品々。
自らが釣り上げたキングサーモンやイトウの剥製。
何種類ものルアー。アラスカの地図。

書斎では作家の息遣いが今も聴こえる。

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蛭田瑞穂 12年7月7日放送



星を見ていた①「ガリレオ・ガリレイ」

1609年、発明されたばかりの望遠鏡を自作した
ガリレオ・ガリレイはそれを星空に向けた。
そこには人類が初めて見る宇宙の姿が映っていた。

月の表面はそれまで考えられていたような
滑らかなものではなく、山も谷もあった。
木星には4つの衛星がまわっていた。
天の川は無数の恒星の集まりであることもわかった。

翌年ガリレオは望遠鏡による観測結果を
『星界の報告』という書物にまとめた。

ガリレオが望遠鏡で宇宙を覗いてから400年余り。
天の川の輝きはいささかも褪せることはない。



星を見ていた②「ティコ・ブラーエ」

天動説の時代、月よりも遠い空間は
永久に変化のない世界と考えられていた。

しかし、16世紀の天文学者ティコ・ブラーエは
超新星と呼ばれる、恒星が一生を終える時に起こす大爆発や、
彗星の軌道の観測をおこない、
それらが月よりも遠くで起きる現象であることを発見した。
この発見が後に、天動説を覆す大きな証拠となる。

驚くことに、こうした発見をブラーエは肉眼による観測だけでおこなった。
その時代、望遠鏡はまだ発明されていなかったのである。

その功績からブラーエは現在、
「肉眼による天体観測の天才」と讃えられている。



星を見ていた③「サウル・パームルッター&ブライアン・シュミット&アダム・リース」

2011年のノーベル物理学賞を受賞したのは、
サウル・パールマター、ブライアン・シュミット、
アダム・リースの3人の物理学者。

受賞理由は「遠方の超新星爆発の観測による
宇宙の加速膨張の発見に対して」。

1929年に発表された「ハッブルの法則」によって、
宇宙が膨張を続けていることがわかった。
その膨張のスピードが加速していることが、
3人の観測によって明らかになったのである。

今、この瞬間にも宇宙は広がっている。
途方もなく速いスピードで。



星を見ていた④「カール・ジャンスキー&グロート・リーバー」

1931年、ベル研究所の技術者カール・ジャンスキーが
雷に含まれる雑音の分析をしていると、
毎日ほぼ同じ方向から来る未知の電磁波を受信した。

一年に及ぶ研究の結果、それは天の川から
発せされる電磁波であることを突き止めた。

その数年後、ジャンスキーの研究を知った
アマチュア天文学者のグロート・リーバーが
自宅の庭に巨大なパラボラ・アンテナを設置した。

世界初の電波望遠鏡となるそのアンテナをつかって
リーバーは宇宙から届くさまざまな電磁波を受信し、
電波による天の川の地図をつくりあげた。

ジャンスキーとリーバーのふたりによって、
電波天文学という新たな分野が幕を開け、
可視光では観測できない天体が観測できるようになった。


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星を見ていた⑤「アーノ・ペンジアス&ロバート・W・ウィルソン」

1964年、ベル研究所に勤めるふたりの科学者、
アーノ・ペンジアスとロバート・ウッドロウ・ウィルソンが、
衛星通信用アンテナの試験中、
宇宙から飛来する未知の電磁波を観測した。

あまりにも正体が不明だったため、
ふたりはアンテナに棲むハトが起こしたノイズとさえ考えた。

のちにそれは超高温状態の宇宙から放射された電磁波の
名残であることが判明する。

ふたりが偶然受信した電磁波は、
ビッグバン理論を裏づける世紀の大発見となった。



星を見ていた⑥「ウィリアム・ハーシェル」

18世紀の天文学者ウィリアム・ハーシェルは、
その生涯で400を超える数の望遠鏡を製作した。

ハーシェルをそこまで駆り立てたもの。
それは宇宙の構造を解明したいという欲求だった。
やがて彼は望遠鏡で見えるすべての星の位置を記録し、
天の川の地図をつくりあげた。

「ハーシェルの銀河モデル」と呼ばれるその天体図は
人類が宇宙を知る大きな道しるべとなった。



星を見ていた⑦「アイザック・アシモフ」

地球に生きるわたしたちはおよそ24時間ごとに夜が訪れることを
あたりまえのこととして知っている。

しかし、もしそれがあたりまえでなかったら?
そんな想像をしたのがSF作家のアイザック・アシモフ。

アシモフが1941年に発表した小説『夜来たる』。
舞台は6つの太陽に囲まれた、夜のない惑星ラガッシュ。
この惑星にある時、2000年に一度の日食が起こる。

突如あらわれる暗闇。初めて目にする夜空と無数の星。
惑星の住民たちは恐怖におののき、光を求めて街に火を放つ。
こうして惑星ラガッシュの文明は一夜にして崩壊する。

当時21歳の無名の作家は、この作品によって一躍人気作家になった。

地球には今夜も夜が来る。そのあたりまえの、なんと幸福なことか。

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蛭田瑞穂 12年6月16日放送


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それぞれの今①レオナ・ルイス

ロンドン出身の歌手レオナ・ルイス。
2006年、イギリスの人気オーディション番組で優勝したことにより
その名が知られるようになった。

幅広い声域と伸びやかな歌声。
その確かな歌唱力は一瞬にして視聴者の心を捉えた。

翌年発表したデビューアルバムは
全世界で600万枚を超えるヒットを記録。
2008年には北京オリンピックの閉会式で
次の開催地ロンドンの代表として、
レッド・ツェッペリンの「胸いっぱいの愛」を熱唱した。

その歌声は4年の歳月を超えて、もうすぐロンドンへ届く。


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それぞれの今②ティルダ・スウィントン

1992年、映画『オルランド』で男から女へ生まれ変わる貴公子を演じ、
注目を集めた英国人女優ティルダ・スウィントン。

周囲からの疎外感を感じながら、自分の世界を探している。
そんな孤独な少女時代を過ごした彼女は大学卒業後、
ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーで演劇を学ぶ。
そこで自分の居場所を見つけた。

数々の映画に出演し、女優としての経験を積んだ今も、
演じることより共演者やスタッフに囲まれながら
作品をつくるプロセスが楽しいと語るティルダ・スウィントン。

最新作『少年は残酷な弓を射る』はまもなく日本でも公開される。


Craig Grobler
それぞれの今③ジュディ・デンチ

映画「007」シリーズでジェームズ・ボンドの上司「M」を演じる女優、
ジュディ・デンチ。鋭い眼光。低いハスキーボイス。
あのジェームズ・ボンドをも従わせる威圧感が彼女の持ち味である。

1957年、『ハムレット』のオフィーリア役で舞台デビュー。
その後「ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー」に所属し、
1998年、映画『恋におちたシェイクスピア』で
アカデミー助演女優賞を獲得した。

2012年、網膜の病気により、視力が失われつつあることを明らかにしたが、
「台本は耳で覚える」と気丈に振る舞う。

秋には「007」の新作、「スカイフォール」の公開が予定されている。


rexhammock
それぞれの今④伊藤穰一

「未来をつくる研究所」として知られる、
マサチューセッツ工科大学の研究機関「MITメディアラボ」。
昨年、外国人として史上初となる
メディアラボの所長に就任した日本人、伊藤穰一。

好きな言葉として伊藤は「ネオテニー」という言葉を挙げる。
「ネオテニー」とは、大人になっても子どもらしさを
持ち続けるという意味の言葉である。

そして今、彼はこう語る。

 変化する世界にあって、
 我々はもっと子どものような行動をし続ける必要がある。
 そうすることで、子どもたちに対して、
 未来を再発明する一助となるような生き方を教えることができる。

MITメディアラボ所長、伊藤穰一。
その視線の先はつねに未来を向いている。


Sit with Me
それぞれの今⑤シェリル・サンドバーグ

facebookの最高執行責任者、シェリル・サンドバーグ。
ハーバード大学の学生仲間から始まったFacebookが
世界的な企業へと成長した陰にこの女性の存在がある。

2008年、Googleの副社長からFacebookに転身すると、
広告をベースにしたビジネスモデルを確立し、
Facebookの収益と利用者数を飛躍的に向上させた。

2012年、TIME誌が発表した「世界でもっとも影響力のある100人」にも
選ばれたシェリル・サンドバーグ。彼女は今、こう語る。

 Facebookに写真を公開すると、どんなに離れていても、
 ぐっと距離が縮まったと感じられる。
 世界をより身近に、パーソナルに、互いに高め合えるようにすること。
 それこそが私たちのミッションなのです。


wvs
それぞれの今⑥ヴィム・ヴェンダース

ロードムービーの旗手、ヴィム・ヴェンダース。
彼によれば旅とは人生そのもの。
人の生きる1秒1秒が、過去から未来への旅に他ならないと言う。

小津安二郎に私淑し、日本の文化にも造詣の深いヴェンダースは、
震災後に福島を訪れた。

彼は今、こう語る。

 僕が知る日本人は過去を敬いながら
 変化にも柔軟に対応してきた人々です。
 日本人がどう未来に向かっていくのか見守りたいのです。


anguissette
それぞれの今⑦アリーナ・コジョカル

現在、「世界最高のダンサー」との呼び声が高い
ルーマニア出身のバレリーナ、アリーナ・コジョカル。

1997年にバレエダンサーの登竜門、
ローザンヌ国際バレエコンクールでスカラシップ賞を受賞すると、
弱冠19歳で英国ロイヤル・バレエ団のプリンシパルに就任。
2004年には“バレエ界のアカデミー賞”といわれる
「ブノワ賞」を受賞した。

157センチと小柄ながら、豊かな演技力が彼女の持ち味。
可憐な少女から成熟した女性まで、役ごとにがらりと印象を変え、
観客を惹きつける。

 一歩一歩、舞台上を進むたび、自分が演じる役柄へと変わっていく。
 とても素敵で不思議な感覚です。

演技についてそう語るアリーナ・コジョカル。
今年の8月、東京で開かれる世界バレエフェスティバルで
彼女の華麗な舞いが見られる。


Beacon Radio
それぞれの今⑨メリル・ストリープ

当代一の名女優は、ユーモアのセンスも一流である。

2012年のアカデミー賞授賞式。
「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」で
3度目のオスカー像を手にしたメリルは
スピーチをこう切り出し、観衆の笑いを誘った。

 私の名前が呼ばれた時、アメリカの半分が
 『Oh! No! また彼女!?』と言うのが聞こえたわ。

その後、舞台挨拶のため日本を訪れたメリル・ストリープ。
アメリカ人以外の人物を演じることに話が及ぶと、
「今度は日本人を演じたい。次回作はこれで決まったわね」と言って、
にこりと笑った。

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蛭田瑞穂 12年5月19日放送

 
チャンピオンズリーグFINAL①トニー・ブリテン

ヨーロッパチャンピオンズリーグでは試合前に
「チャンピオンズリーグ・アンセム」を流すことが習わしになっている。

スタジアムにアンセムが流れると、それは決戦が始まる合図。
古代ローマのコロッセオに戦士が入場するように、
勇壮な選手たちがピッチにあらわれる。

このアンセムを作曲したのはイギリスの作曲家トニー・ブリテン。
ヘンデルが作曲した「司祭ザドク」のメロディをベースに、
曲をアレンジし、歌詞をつけた。

今シーズンのチャンピオンズリーグの決勝は
ドイツのミュンヘンで今日5月19日に行なわれる。
舞台となるアリアンツアレーナに間もなくアンセムが響き渡る。


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チャンピオンズリーグFINAL②ユルグ・シュタデルマン

ヨーロッパチャンピオンズリーグの優勝トロフィーは、
2つの取っ手が大きな耳のように見えることから
「ビッグイヤー」と呼ばれる。

このトロフィーをデザインしたのは
スイスの職人ユルグ・シュタデルマン。
ヨーロッパ各国の好みを考慮し、この形に仕上げたという。

彼は語る。

 芸術的な傑作とは言えないかもしれない。
 でもヨーロッパのすべてのサッカー選手が
 手にしたいと思うのは確かだと思います。

2012年のチャンピオンズリーグの決勝は今日5月19日、
ドイツのミュンヘンで行なわれる。ビッグイヤーを掲げるのは、
バイエルン・ミュンヘンか、チェルシーか。


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チャンピオンズリーグFINAL③クラレンス・セードルフ

プロサッカー選手にとって、
ヨーロッパチャンピオンズリーグの優勝トロフィーを掲げることは
一生に一度叶えたいと願う、大きな夢。

その夢を4度も叶えてしまった選手がいる。
現在ACミランに所属するオランダ人ミッドフィールダー、
クラレンス・セードルフである。

95年にオランダの名門アヤックスで。
98年にレアル・マドリードで。
2003年と2007年にACミランで。

チャンピオンズリーグの優勝を複数経験した選手は他にもいる。
だが3つの異なるクラブで、というのは史上ただ一人、
セードルフだけである。


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チャンピオンズリーグFINAL④リオネル・メッシ

FCバルセロナに所属するリオネル・メッシは10歳の時、
医師から成長ホルモンの異常による発育不全と診断された。

高額な治療費が足かせとなり、複数のユースチームが獲得を見送る中、
FCバルセロナだけはメッシの将来性を見抜いた。
治療費を全額負担することを約束し、彼をチームに加えた。

その後の治療とトレーニングにより
身長もサッカーの技術も着実に成長したメッシ。

メッシは今シーズン、ヨーロッパチャンピオンズリーグで
ふたつの記録を打ち立てた。ひとつは史上初の1試合5ゴールという記録。
もうひとつは1シーズンの最多得点記録。

メッシは言う。

 まわりより小さかったからこそ、
 すばやく動けてサッカーがうまくなれた。
 最悪な状態でも良い方向に変えられるってことを
 僕は学んだんだ。


さんたす
チャンピオンズリーグFINAL⑤アリゴ・サッキ

1980年代に「ゾーンプレス」という戦術を編み出し、
サッカーに革命を起こしたイタリア人監督アリゴ・サッキ。

1989年と1990年にはACミランを率いて
ヨーロッパチャンピオンズリーグの連覇を達成した。

理論家として知られ、サッカーを熟知するサッキだが、
意外なことにプロサッカー選手としての経歴はない。

独学でサッカー理論を学び、少年サッカーのコーチから
キャリアをスタートさせ、やがて世界の頂点まで登り詰めた。

その経歴についてサッキは自らこう語る。

 優れた騎手になるために、馬に生まれる必要はないのです。


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チャンピオンズリーグFINAL⑥ジネディーヌ・ジダン

ペレは言う。

 もしジダンがチームメイトにいたら、
 わたしは2倍の得点を叩き出したかもしれない。

ミシェル・プラティニは言う。

  サッカーの技術に関してはジダンが王様。誰も真似できない。

ジネディーヌ・ジダン。
多くの名選手が口をそろえて史上最高の選手と呼ぶ、
現代サッカーのマエストロ。

2002年のヨーロッパチャンピオンズリーグ決勝で、
ジダンの決めたボレーシュートは
チャンピオンズリーグ史上もっとも美しいゴールとも言われる。


Okko Pyykkö
チャンピオンズリーグFINAL⑦アレックス・ファーガソン

1999年5月、バルセロナのカンプ・ノウスタジアムで行なわれた
ヨーロッパチャンピオンズリーグの決勝、
マンチェスター・ユナイテッド対バイエルン・ミュンヘン戦。

試合はバイエルン1点リードのまま90分が経過した。
疲労の見える主力をベンチに下げ、勝利を手中に収めつつあるバイエルン。
しかし、ここからドラマが始まる。

ロスタイムに、デビッド・ベッカムのコーナーキックから
マンチェスターが立てつづけに2ゴールを決め、まさかの逆転劇を起こす。

「カンプ・ノウの奇跡」と呼ばれるこの勝利によって、
チャンピオンズリーグを制したマンチェスター・ユナイテッドは、
国内リーグ戦とカップ戦と合わせて三冠を達成した。

この功績により、監督のアレックス・ファーガソンには
エリザベス女王からサーの称号が贈られた。


Jaanus Kalju
チャンピオンズリーグFINAL⑧マルコ・バロッタ

スポーツ選手にとっての最大の敵。それは年齢である。
この難敵と闘って勝った選手は誰ひとりいない。

その意味でヨーロッパチャンピオンズリーグ史上最強の選手は
イタリア人ゴールキーパーのマルコ・バロッタともいえる。

彼が2007年に記録した43歳と168日での出場は
チャンピオンズリーグにおける最年長出場記録。

キャリアの晩年、現役を長く続ける秘訣として彼はこう語っている。

 若い頃は成長するために努力しろと言われた。
 年齢を重ねた今は歳なんだからもっと努力しろと言われるよ。

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蛭田瑞穂 12年4月21日放送



向田邦子のレシピ①

向田邦子は料理が好きだった。
「本当は板前さんになりたかった」と言う程の料理好きで、
執筆中気がつくと原稿用紙にお品書きを書いていることもあった。

「イワシの梅煮」
イワシは幅3センチぐらいの筒切りにする。
出し汁、酒、みりん、醤油を鍋で煮たてた後、
イワシとほぐした梅干しを入れる。
中火で10分煮たら、そのまま冷まして味をしみ込ませ、
器に盛ったらできあがり。

料理をつくっては人を招いた向田邦子。
その料理には温かなもてなしのこころが隠れている。



向田邦子のレシピ②

向田邦子は食べ歩くのが好きだった。
おいしい店を見つけると、その店の味を熱心に真似た。

自分の味にすると、次は独自のアレンジを加えた。
材料がなければ別のもので代用した。
意外な食材が組み合わさることで予想外のおいしさが生まれた。

「白身魚のマヨネーズ焼き」
塩コショウを振った白身魚をバターで焼き、火を通す。
シソの葉と玉ネギをみじん切りし、
あら切りしたリンゴと一緒にマヨネーズであえる。
白身魚にマヨネーズソースを塗って、オーブンで焼いてできあがり。

向田のつくる「白身魚のマヨネーズ焼き」も
グラタンをつくり変えたオリジナルレシピである。



向田邦子のレシピ③

向田邦子は海苔弁当が好きだった。
海外旅行から帰ってくると、
まっ先に食べたくなるのは決まって海苔弁当だった。

火鉢でぱりっと炙った海苔。
削るとぷうんと匂い立つかつお節。
薪でふっくら炊き上げた白いご飯。

良い材料を吟味してつくる海苔弁当は、
ほんとうのおいしさを知る、大人の贅沢な料理。

「向田流海苔弁当」
炊きたてのご飯を弁当箱の1/3ほどに詰める。
その上に醤油をまぶしたかつお節を敷き、
八つ切りした海苔をのせる。
それを3段重ね、最後に薄くご飯をのせる。
ふたをして5分ほど蒸らしてできあがり。

「最後の晩餐」に何を食べるかという友人たちとのおしゃべりで、
必ず話題にのぼったのも、ご飯と海苔とかつお節だったという。



向田邦子のレシピ④

向田邦子はスープが好きだった。
両腕を広げたほどもある大きな寸胴鍋を使って、
スープをコトコト煮込んでいた。

「ジャガ芋スープ」
ジャガ芋、ニンジン、玉ネギ、セロリをスープ鍋の中にすりおろす。
水、ローリエ、塩、ブイヨンを入れ、弱火で20分煮込む。
器に盛ったら、細かく切ったハムとパセリを散らし、
バターを落としてできあがり。

友人が病気と聞けば、小さな鍋で届けた向田邦子。
彼女のつくるスープはやさしい味がしたに違いない。



向田邦子のレシピ⑤

向田邦子は鶏肉が好きだった。
とくに鶏の酒蒸しはよくつくった。

どんな食材とも相性が良いため、鶏肉を好む料理人は多い。
ただ向田の場合、飼っていた猫の好物が鶏肉だったことも
多少の関係があるのかもしれない。
猫に買うついでに、もうちょっとという具合に。

「蒸し鶏とトマトの中華風」
胸肉に薄く塩を振り、酒を振りかけて蒸す。
冷めたら細く裂き、千切りのキュウリと混ぜたら
やや厚めのトマトの輪切りに乗せる。
出し汁、みりん、醤油でつくったつゆに酢とごま油を合わせ、
上からかけてできあがり。

向田邦子が溺愛した猫の名はマミオ。
向田がバンコクでひと目惚れし、帰国後飼い主に手紙を送り、
譲ってもらったというエピソードがある。



向田邦子のレシピ⑥

向田邦子は倹約が好きだった。
余った食材は捨てずに取っておき、次の料理に使いまわした。

食べものをたいせつにするというのは向田家の躾で、
小皿に残った醤油さえ、捨てるとずいぶん叱られたという。

梅干しの赤ジソやかつお節削りに残ったかつおの粉。
そんな食材とも呼べないような残りものを使って、器用に料理をこしらえた。

「梅ジソとかつお節の箸休め」
さっと水洗いした梅ジソをきつく絞って細かく刻む。
刻んだシソの葉にかつお節をまぶす。
最後に醤油で味を調えてできあがり。

食材を無駄にしない。それも料理の腕のひとつ。



向田邦子のレシピ⑦

向田邦子は旬の野菜が好きだった。
春、みずみずしい根三つ葉が青果店に並ぶと、
向田はうきうきしながらそれを買った。

「三つ葉のきんぴら」
三つ葉をざく切りし、サラダ油を熱したフライパンで炒める。
余計な水分を捨て、醤油をまわし入れて味をつける。
仕上げにゴマ油をたらし、器に盛る。
最後に白ゴマをかけてできあがり。

向田邦子の台所にはいつも旬の香りが溢れていた。



向田邦子のレシピ⑧

向田邦子は味つけご飯が好きだった。
とりわけ好んだのは小料理屋を営む妹がつくるニンジンご飯。
ニンジンと油揚げをたっぷり炊き込むニンジンご飯を
「食べ過ぎると眠くなっていけない」と言いながらおかわりしていた。

向田自身がよくつくったのはシソの葉を混ぜ込む青ジソごはんや
山ほどクレソンを入れた炒飯だった。

「クレソン炒飯」
冷やご飯をバターで炒め、パラパラになったら
塩、コショウ、酒で味を調える。
細かく刻んだクレソンを加えてひと混ぜして
お好みで醤油をたらしてできあがり。

一種類の具のみをつかって、おいしい料理をつくる。
その潔さがなんとも向田邦子らしい。

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