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蛭田瑞穂 11年4月3日放送


The Godfather 1

俳優マーロン・ブランド。

1953年、29歳で出演した映画『乱暴者』で
暴走族のリーダーを演じ、
一躍若者たちのカリスマ的存在となる。

その不良的な演技はジェームズ・ディーンにも
大きな影響を与えたという。

その後、『波止場』『ゴッドファーザー』で
2度のアカデミー主演男優賞を受賞し、
戦後のハリウッドを代表する俳優となった
マーロン・ブランド。

彼は1924年の今日、
ネブラスカ州オハマに生まれた。


The Godfather 2

フランシス・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』。

1972年にアメリカで公開されると、
当時の興行収入記録を塗り替える大ヒットになった。

人気を受けて、74年に続編『ゴッドファーザー・パートII』が公開。
この映画も大ヒットし、前作に引き続き
アカデミー作品賞を受賞した。

アカデミー賞の長い歴史の中で、
1作目と2作目が続けて作品賞を受賞した例は
『ゴッドファーザー』をおいて他にはない。

『ゴッドファーザー』。
それはフランシス・コッポラが
映画史に立てた不滅の金字塔である。


The Godfather 3

映画『ゴッドファーザー』の原作者マリオ・プーゾは
主人公のドン・コルレオーネを
ぜひマーロン・ブランドに演じてほしいと思っていた。

プーゾは意を決し、その思いを手紙にする。

「あつかましいことは承知しておりますが、
 あなたはこの役を演じられる唯一の俳優だと思います」

プーゾの手紙に心を動かされたブランドは
自分がイメージするドン・コルレオーネをビデオで撮影し、
監督のフランシス・コッポラに送った。

そのビデオの中で彼は口に綿を詰めて頬を膨らませ、
貫禄のあるマフィアのドンという役づくりをした。

当初、別の俳優を主役に考えていたコッポラだったが、
このビデオを見てマーロン・ブランドの起用を決めた。

男たちの思いがつながって生まれた『ゴッドファーザー』。

映画はアカデミー作品賞に輝き、
マーロン・ブランドは主演男優賞に選ばれた。


The Godfather 4

1972年、マーロン・ブランドは
『ゴッドファーザー』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー主演男優賞を受賞する。

1974年、ロバート・デ・ニーロは
『ゴッドファーザー・パートII』で演じた
ビトー・コルレオーネ役で、
アカデミー助演男優賞を受賞する。

これは、ふたりの俳優が同じ人物を演じ、
それぞれがアカデミー賞を受賞した唯一の例。

マフィアのドンと、ドンにのしあがる青年。
マーロン・ブランドとロバート・デ・ニーロは、
それぞれの役を見事に演じきった。


The Godfather 5

セリフを覚えてこない。
すぐに女優に手を出す。
撮影スタッフに怒鳴り散らす。

そんな撮影現場での態度から
トラブルメーカーの悪評もあるマーロン・ブランド。

だが一方で彼には、生涯に渡って人種差別と闘う
人道主義者としての側面もある。

マーティン・ルーサー・キングが導いた歴史的なデモ
「ワシントン行進」に参加し、
人種差別撤廃を訴えたこともある。

『ゴッドファーザー』でアカデミー主演男優賞に選ばれた際には、
ハリウッド映画におけるネイティブアメリカンの
差別的な描かれ方に異議を唱え、受賞を拒否した。

あらゆる面で型破りな俳優、マーロン・ブランド。
こんな男はもう2度とあらわれない。


The Godfather 6

フェデリコ・フェリーニの『甘い生活』。
ルネ・クレマンの『太陽がいっぱい』。
フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』。

数々の映画音楽を手がけ、
その哀愁に満ちた旋律で映画ファンを魅了した
イタリア人作曲家ニーノ・ロータ。

フランシス・コッポラに請われ、
『ゴッドファーザー』全3作の音楽も担当した。

主題曲『愛のテーマ』は、
映画音楽の代名詞ともいえる名曲。

ニーノ・ロータ。
その名は永遠に映画史に刻まれる。


The Godfather 7

2005年、ニューヨークの
クリスティーズで行われたオークションで、
マーロン・ブランドが所有していた
『ゴッドファーザー』の台本が31万2千800ドルで落札された。

日本円にして約3000万円。
それは映画の台本につけられた史上最高の額。

俳優マーロン・ブランドと映画『ゴッドファーザー』。
その人気は不滅である。


The Godfather 8

映画『ゴッドファーザー』3部作の主人公、
マイケル・コルレオーネ。

マフィアのドン、ビトー・コルレオーネの
三男として生まれた彼は、
無口でインテリ風の青年であったが、
ファミリーを守るために激しい抗争をくぐり抜け、
やがてドンにのしあがる。

映画でこの役を演じたのはアル・パチーノ。
当時、彼はまだ無名の役者だった。

映画会社は起用に反対したが、
監督フランシス・コッポラは譲らず彼を抜擢する。

アル・パチーノのその後の活躍は誰もが知るところ。

『ゴッドファーザー』の成功により、
俳優アル・パチーノもまた、
映画界の頂点にのしあがったのである。

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蛭田瑞穂 11年03月06日放送


バルガス・リョサ

2010年のノーベル文学賞を受賞した
ペルー出身の作家バルガス・リョサ。

『都会と犬ども』、『緑の家』、『世界終末戦争』などの
著書で知られるリョサは、作品を通じて
社会の偽善や腐敗を告発し、南米の多様な文化を描いてきた。

バルガス・リョサをノーベル文学賞に選考した理由として、
スウェーデン・アカデミーは次のように発表した。

権力の構造を明確に描き、
個人の抵抗、反抗や敗北を鋭く表現した。


サミュエル・ベケット

舞台の上に男がふたり立っている。
ふたりはゴドーという人物を待っている。

劇作家サミュエル・ベケットが発表した戯曲
『ゴドーを待ちながら』。

ふたりの男はしかし、ゴドーという人物を知らない。
会ったこともない。来るかどうかもわからない。
なぜふたりはゴドーを待ち続けるのか。

この戯曲によって、ベケットは
「不条理劇」というスタイルを完成させ、
のちの演劇界に多大な影響を与えた。

文学や戯曲の分野で新しい表現方法を切り拓いた。

その理由により、サミュエル・ベケットは
1969年のノーベル文学賞を受賞した。


ガルシア・マルケス

コロンビアの作家ガルシア・マルケスが
1967年に発表した小説『百年の孤独』。

南米の架空の町マコンドを舞台に、
町を開拓したブエンディア一族の繁栄と滅亡を描いた100年の物語。

チョコレートを飲んで空中浮遊する神父。
遠く離れた場所からテレパシーで手術をする医者。
4年と11カ月も降り続く雨。

ブエンディア一族の歴史が、
次々と繰り出される奇想天外なエピソードによって
神話的に語られる。

日常と非日常が混ざり合う「マジック・リアリズム」
という手法を巧みに使った小説は各国でベストセラーになり、
世界中でラテンアメリカ文学ブームを巻き起こした。

『百年の孤独』の発表から15年後、
スウェーデン・アカデミーはガルシア・マルケスに
ノーベル文学賞を授与する。その選考の理由は、

幻想と現実を結びつけ、ひとつの大陸に生きる葛藤を
豊かな想像の世界で表現した。

というものだった。


パブロ・ネルーダ

1971年のノーベル文学賞を受賞した
チリの詩人、パブロ・ネルーダ。

彼にとってはこの世界に存在するもの
すべてが詩作の対象だった。

チリの美しい自然。女性のからだ。妻への愛。政治。戦争。
パンを讃える詩をつくったこともある。

同じく南米出身の小説家ガルシア・マルケスは、
ネルーダを「詩のミダース王」と表現した。

ミダース王とは触るものすべてを黄金に変える力を持つ
ギリシャ神話の登場人物。

目に触れるものすべてを詩に変えた。
ガルシア・マルケスはネルーダをそう讃えたのである。


トーマス・マン

20世紀の文学界の巨匠トーマス・マンが
1901年に発表した小説『ブッデンブローク家の人々』。

商人の一族、ブッデンブローク家の4代に渡る繁栄と没落を描き、
生まれたばかりの近代市民社会と、
そこに生きる人々の姿をユーモアとアイロニーを交えて表現した。

のちにトーマス・マンはノーベル文学賞を受賞するが、
その理由は、

現代の古典として広く知られる偉大な小説、
『ブッデンブローク家の人々』に対して。

というものだった。

作家本人の功績を讃えて授与されることの多いノーベル文学賞が、
特定の作品を評価することは珍しい。

しかも『ブッデンブローク家の人々』は、
トーマス・マンが執筆した事実上初めての長編小説。

弱冠25歳の時の作品であった。


ロマン・ロラン

ノーベル賞作家ロマン・ロランの代表作『ジャン・クリストフ』。

貧しい音楽一家に生まれた主人公ジャン・クリストフが、
人間や芸術家としての真実を追求しつづける物語。

傷つきやすくも、闘うことを決してやめない
ジャン・クリストフの不屈の生涯を描き、
人間のあるべき姿を示したロマン・ロラン。
彼は一生を通じて、理想主義的ヒューマニズムを表現した。

『ジャン・クリストフ』を書き上げたあとで、
ロランはこう記している。

 今日の人々よ、若い人々よ、今度はきみたちの番だ!
 われわれのからだを踏み台として、前進したまえ。
 われわれよりも、さらに偉大に、さらに幸福になるのだ。


ウィリアム・フォークナー

『響きと怒り』、『八月の光』などの作品で知られる、
アメリカ人作家ウィリアム・フォークナー。

自らの出生地であるアメリカ南部を
小説の題材として繰り返し取り上げ、
土地の因習や人間の深い業を描き続けた。

アメリカ現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献が評価され、
1949年にフォークナーはノーベル文学賞を受賞する。

その文学は後世の作家たちにも大きな影響を与えた。
同じくノーベル文学賞したガルシア・マルケスも、
「フォークナーを父として殺すことが自分の文学観だった」
という表現でフォークナーの偉業を讃えている。


ヘルマン・ヘッセ

作家ヘルマン・ヘッセの代表作『車輪の下』。

エリートの集まる神学校に入学した主人公ハンスが、
詰め込み教育と寄宿舎生活に疲れ、学校から脱走するという、
少年の苦悩と挫折を描いた物語。

主人公の少年時代は、作者自身の少年時代とほぼ重なる。

宣教師の父親の仕事を継ぐため、
14才で神学校に入学したヘッセはわずか半年で学校から逃げ出す。
その後、職を転々とし、自殺未遂も起こした。

作家としてデビューするまで長い苦難の時期を過ごしたが、
彼には「詩人になるか、さもなくば何者にもならない」という
強い決意があった。

のちにノーベル文学賞を受賞したヘルマン・ヘッセ。
彼はこんな言葉を残している。

 過ちも失敗も多かった。だが、後悔する余地はない。

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蛭田瑞穂 11年2月27日放送


デジタル時代の天才たち①
「マーク・ザッカーバーグ1」

世界最大の
ソーシャルネットワーキングサービス「Facebook」。

2004年にハーバード大学の学生
マーク・ザッカーバーグが「Facebook」を設立すると、
さまざまな投資家が彼に近づき、買収の話を持ちかけた。

しかし、どんな金額を提示されても、
ザッカ―バーグに会社を売る気はなかった。

彼は言う。

 別にお金が欲しいわけじゃない。
 僕にとってFacebookはニ度と思いつくことのない
 素晴らしいアイデアなんだ。


デジタル時代の天才たち②
「ジェフ・ベゾス」

伝説はガレージからはじまる。

「Hewlett-Packard」は1938年、
ウィリアム・ヒューレットとデビッド・パッカードが
カルフォルニア州パロアルトの小さなガレージではじめた。

「Apple Computer」は76年、
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックが
ジョブズの実家のガレージではじめた。

「Google」は98年、
セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジが
カリフォルニア州メンローパークのガレージからはじめた。

インターネットショッピングの「Amazon」も
1994年にシアトルのガレージからはじまった。
だがそれにはこんな裏話がある。

創業者のジェフ・ベゾスが、事業が成功したあとで
「うちの会社もガレージからはじまった」と言うために
わざとガレージを選んだのだという。


デジタル時代の天才たち③
「マーク・ザッカーバーグ2」

ウェブ上でユーザー同士が自由に交流を楽しむ

ソーシャル・ネットワーキングサービス。

中でも世界最大のユーザー数を誇るのが、「Facebook」。

2004年、当時ハーバード大学の学生だった
マーク・ザッカーバーグと数人の仲間が
大学内の学生交流のためにはじめた。

すると、そのサイトが学生の間で評判になり、
他の大学にも次々と公開されるようになった。

そして2006年、一般の人々にも公開が及ぶと人気は爆発し、
世界中の人々が「Facebook」に自分のページを開きはじめた。

現在の会員数は5億人を超える。
設立からわずか6年でアメリカ合衆国の総人口をも上回る
ユーザーを集めたモンスターサイト「Facebook」。

マーク・ザッカーバーグはこう語る。

 ぼくたちはFacebookを
 単なるウェブ上のコミュニティとは考えていない。
 Facebookはリアルライフの映し鏡。
 リアルライフそのものなんだ。


デジタル時代の天才たち④
「サーゲイ・ブリンとラリー・ペイジ」

2004年のある日、シリコンバレーの中心を走る
ハイウェイ沿いに奇妙なビルボードが設置された。

書いてあるのは難解な数学の問題と、
ウェブサイトのアドレスを思わせる「.com」の文字だけ。
企業名は何も書いていない。

じつはそのビルボードは「Google」の求人広告。

数式の解答をアドレスバーに打ち込むと、
「我々が探しているのは世界最高のエンジニア。
 あなたこそその人です」と書かれたページにたどり着く。

セルゲイ・ブリンとラリー・ペイジ。
ふたりの天才がつくった革新的な検索エンジン
「Google」は求人の方法もまた革新的である。


デジタル時代の天才たち⑤
「ラリー・ペイジ」

1996年、スタンフォード大学の大学院生、
ラリー・ペイジとサーゲイ・ブリンは
どんな検索サイトよりも正確に情報を探し出せる
検索システムの研究に没頭していた。

あるとき、ラリー・ペイジは
サイトとサイトを結びつける「リンク」が
重要な鍵を握ることに気づいた。

そこで、彼はリンクの解析をするために、
インターネットに存在するすべてのサイトを
自分のコンピュータにダウンロードすることを試みた。

「そんな馬鹿な」。指導教官も驚くほどの
大それた考えだったが、ラリーは実行する。

そしてついに、すべてのウェブサイトの
リンク構造を解析し、「ページランク」と呼ばれる
独自の検索アルゴリズムの開発に成功した。

この「ページランク」がのちに世界最大の検索エンジン
「Google」の誕生につながるのである。

ラリー・ペイジは語る。
 
 できるはずがないと思われることに挑戦すべきなんだ。
 こうしようと決めた目標に向かうときは、
 ちょっとまぬけでなくちゃいけないのさ。


デジタル時代の天才たち⑥
「スコット・ファールマン」

パソコンや携帯電話のメールで使われる「絵文字」。

世界で最初の絵文字は1982年、当時IBMの技術者だった
スコット・ファールマンによってつくられた。

コロンとハイフン、カッコを組み合わせ、
横向きにすると人の笑顔に見えることから
「スマイリー」と名づけられた。

それ以来、さまざまな人の手によって
多くの絵文字がつくられ、
文字が整然と並ぶコンピュータのテキストは、
人間の豊かな感情に彩られるようになった。

スコット・ファールマンは言う。

 良かったのか悪かったのかわかりませんが、
 これは私が世界に上げた贈り物です。


デジタル時代の天才たち⑦
「ビズ・ストーン」

今起きていることを140字以内の短い文章で投稿する
コミュニケーションサービス「twitter」。

投稿することを“tweet”というが、
それは鳥のさえずりという意味。

2006年の創業からわずか3年でユーザーは1億人を超え、
1日に5000万もの投稿が世界中を飛び交う。

「Twitter」の共同創業者、ビズ・ストーンは語る。

 世界中の人々がつながれば、思いを分かち合えます。
 鳥の群れが、隣同士つつきあいながら、
 全体で美しいうねりをつくるようにね。
 僕たちはその流れを支えたいのです。


デジタル時代の天才たち⑧
「スティーブ&スティーブ」

「Apple Computer」はふたりのスティーブによってつくられた。

ひとりはスティーブ・ジョブズ。
もうひとりはスティーブ・ウォズニアック。

ジョブズとウォズニアックが出会ったのは1971年。
ウォズニアックの自作したコンピュータを
ジョブズが見に訪れたことから交遊がはじまる。

ウォズニアックは振り返る。

 いやー、似てるなあって思ったよ。
 コンピュータの設計について話さなくてもわかってくれたし。
 すぐに仲良くなってエレクトロニクスや音楽について、
 いろいろと話し合ったんだ。

パーソナルコンピュータの革命は、
ビジネスではなく少年同士の友情からはじまった。

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蛭田瑞穂 11年01月02日放送


新年の歌④「お正月」

明治の作曲家、滝廉太郎。

15歳で現在の東京芸術大学に入学すると、
4年後に首席で卒業。

「荒城の月」「箱根八里」など
23歳で亡くなるまでに
数々の名曲をつくった夭逝の天才作曲家。

お正月が待ち遠しい子どもの心を表現した
童謡の「お正月」も彼の手によるもの。


新年の歌⑤「美しく青きドナウ」

1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国の間で起こった
「普墺戦争」はプロイセン王国の勝利で終結した。

敗戦したオーストリアの国民は悲しみに沈んだ。

そんな国民を励まそうと、
ウィーン男声合唱協会の指揮者ヨハン・ヘルベックは
ヨハン・シュトラウス2世に合唱曲を依頼する。

それまで合唱曲を書いたことがなかったシュトラウスは
一度はその依頼を断るが、ヘルベックの熱意に押され曲を書き上げる。

そして生まれたのがワルツ『美しく青きドナウ』。

最初は男声合唱曲だったが、
のちにシュトラウスが管弦楽曲に書きなおすと人気を博し、
「シュトラウスの最高傑作」とまで賞讃されるようになった。

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が新年に開催する
ニューイヤーコンサートではこの『美しく青きドナウ』が
アンコール曲として演奏される。

アンコールでは、曲の序奏部を演奏したあと、
拍手によって曲をいったん打ち切り、
指揮者や団員の新年の挨拶が行われることが恒例となっている。


新年の音楽⑥「クレメンス・クラウス」 

ウィーンのお正月の風物詩といえば、
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団が開催する
ニューイヤーコンサート。

1939年に始まったこのコンサートの初代指揮者が
クレメンス・クラウス。

1893年、ウィーンに生まれたクラウスは
その貴族的な容姿と優雅な演奏スタイルで人気を博し、
世界的な指揮者へと登り詰めた。

1954年に亡くなるまで、
ニューイヤーコンサートの指揮者を7度も務めた
クレメンス・クラウス。

その生涯に渡る業績が讃えられ、
現在では「最後のウィーンの巨匠」と呼ばれている。


新年の歌⑦「オールド・ラング・サイン」 

『蛍の光』はスコットランドに古くから伝わる民謡。
原題は『オールド・ラング・サイン』という。

作者は不明だが、歌詞を現代に伝わる形に変えたのが、
18世紀のスコットランドの詩人ロバート・バーンズ。

旧友と再会し、思い出話を語りながら酒を酌み交わす。
その歓びが歌詞に綴られている。

その詞の内容もあり、スコットランドで
『オールド・ラング・サイン』は新年を祝う歌としてうたわれる。


新年の歌⑧「春の海」

琴演奏家、宮城道雄が作曲した『春の海』。
1930年の歌会始の勅題「海辺の巌」にちなんで作曲された。

8歳で失明した宮城道雄はこの曲を
幼い頃祖父母と暮らしていた瀬戸内の風景を
思い浮かべてつくったという。

この曲を有名にしたのが、
フランス人のヴァイオリニスト、ルネ・シュメー。

この曲の旋律に魅せられた彼は
尺八のパートをヴァイオリンに変え、
宮城道雄とアンサンブルした。

その演奏を収録したレコードは日本だけでなく、
アメリカ、フランスでも発売された。

宮城道雄の脳裏に焼きついた瀬戸内の美しい春は、
海を越えて、人々の耳に届けられることになった。

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蛭田瑞穂 10年12月12日放送



ブシコーとボン・マルシェ①

世界で最初に生まれたデパート「ボン・マルシェ」。

1874年に完成した新しい建物の中には
1階から天井までが吹き抜けになった巨大なホールがあった。

昼間はガラスの天井から陽の光が降り注ぎ、
夜になると巨大なシャンデリアが、
豪華絢爛たる灯りでホールを照らした。

「ボン・マルシェ 」の創業者アリスティッド・ブシコーは、
パリ万博のパビリオンをヒントにこのホールをつくった。

日常と切り離された特別な空間で買い物を楽しんでもらいたい。
それが彼の狙いだった。

クリスマスが近づくこの時期、
世界中のデパートが華やかに彩られる。

ブシコーの思い描いた祝祭の空間がそこにはある。



ブシコーとボン・マルシェ②

世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」の創業者
アリスティッド・ブシコー。

彼には、消費者を豊かにするには、
まずデパートの従業員が豊かでなくてはならない
という考えがあった。

そのため利益はできるだけ従業員に還元し、
無料の社員食堂や独身寮、退職金制度など、
福利厚生を充実させた。

現在もパリに存在する「ボン・マルシェ」の入り口には
「アリスティッド・ブシコーの店」と書かれた
昔ながらの看板がかかっている。

それはブシコーがいかに
従業員に愛されていたかを示す証でもある。



ブシコーとボン・マルシェ③

19世紀のパリ市民にとって、日々の買い物は苦痛であった。

当時はまだ値札というものがなく、
価格はすべて店員との値段交渉によって決められた。
その上、商品を買うまで店を出てはいけないという
暗黙のルールさえ存在した。

やがて「マガザン・ド・ヌヴォテ」と呼ばれる
新しい形態の小売店が生まれ、その状況を劇的に変える。

しかし真の変化はアリスティッド・ブシコーと
その妻マルグリットがつくった世界初のデパート
「ボン・マルシェ」によって起こされた。

オペラ座のように美しい建物。
宮殿のように華やかな館内。
そして、百花繚乱の品ぞろえ。

「ボン・マルシェ」の誕生によって買い物は快楽へと変貌し、
店はモノを売る場から、夢を売る場へと昇華した。

「ボン・マルシェ」、
それはブシコー夫妻が起こした商業の革命だった。



ブシコーとボン・マルシェ④

19世紀の半ば、世界で最初のデパートをつくった
アリスティッド・ブシコーは、
商業の天才であると同時に宣伝の天才でもあった。

当時生まれたばかりの新聞広告に目をつけ、
大量の折り込みチラシをパリ中にばら撒いた。

そのチラシを制作するために、
彼はデパート内に専用の印刷所まで設けたという。

やがて大衆による爆発的な消費社会が来ることを
見抜いていたアリスティッド・ブシコー。

その慧眼には驚くしかない。



ブシコーとボン・マルシェ⑤

19世紀に創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。
創業者のアリスティッド・ブシコーは冬のある日、
ひとり物思いに耽っていた。

バーゲン期間が終わった後も、
売り上げを落とさないようにするには
どうすればいいのだろう?

その時、窓の外に降る雪を見たブシコーの頭に、
突然「白」という言葉が浮かんだ。

ワイシャツやシーツなど白い生地を使った商品を
集中的に売り出すというのはどうだろうか。

そう思いついた彼は、売り上げの落ちる2月に
「白の展覧会」と銘打ったセールを大々的におこなった。

店内は白い生地を使ったありとあらゆる商品に包まれ、
さながら白銀の世界と化した。

この「白の展覧会」が、現在も続く
デパートの大売り出しのはじまりである。

もしあの日、窓の外に雪が降っていなかったら、
デパートの大売り出しはなかったかもしれない。



ブシコーとボン・マルシェ⑥

今もパリに存在する世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。

創業者のアリスティッド・ブシコーは、
デパートの売り上げの鍵を握るのは女性客だと考えていた。

そのため「ボン・マルシェ」の1階には
女性向けの目玉商品を山積みにし、
女性客の人だかりが自然とできるようにした。

さらに、婦人服や生地などをあえて別々のフロアに配置し、
デパート全体を女性客の活気で溢れるように工夫をした。

現在、多くのデパートの1階には化粧品などの
女性向けの商品が並べられている。

19世紀に生まれたブシコーのアイデアは
こうして今も脈々と受け継がれているのである。



ブシコーとボン・マルシェ⑦

19世紀の半ばに創業された世界最古のデパート「ボン・マルシェ」。

創業者のアリスティッド・ブシコーは12月になると、
おもちゃと本を売り場に並べ、
店中をプレゼント一色に塗りつぶした。

これが現在のデパートでおこなわれる
大規模なクリスマスセールの先駆けといわれる。

さて、もうすぐクリスマス。
あなたのプレゼントはもう決まりましたか?



ブシコーとボン・マルシェ⑧

世界で最初のデパート「ボン・マルシェ」は
もとは小さな商店だった。

1835年にアリスティッド・ブシコーとその妻マルグリットが
「ボン・マルシェ」の共同経営権を買うと、
さまざまな改革を行ない、店を大きく成長させた。

大量に仕入れ安い価格で売る薄利多売方式。
季節のバーゲンセール。
カタログによる通信販売。

これらはブシコー夫妻がつくりだし、
現在でも多くのデパートで行なわれている事業である。

ブシコー夫妻の功績、
それは単に「ボン・マルシェ」というデパートを
つくっただけではない。
デパートという仕組みそのものを発明し、
消費の文化を創造したのである。

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蛭田瑞穂 10年11月27日放送


ミステリーの夜①エドガー・アラン・ポー

アメリカ人作家エドガー・アラン・ポーが
1841年に発表した小説『モルグ街の殺人』。
これが史上初の推理小説と言われる。

今日、推理小説で使われるさまざまなトリックは、
そのほとんどがポーによって発明されたと言ってもいい。

密室殺人、暗号のトリック、
探偵自身が犯人だったというドンデン返し。

探偵の活躍を探偵自身ではなく、
友人役が語るというシャーロック・ホームズでお馴染みの手法も
ポーが最初に使った。

エドガー・アラン・ポー。
彼こそが推理小説の父である。


ミステリーの夜②ヴァン・ダイン

ミステリーの巨匠ヴァン・ダインがつくった、
推理小説を書く上で作者が守らなければならない20のルール。
通称「ヴァン・ダインの二十則」。

たとえば、
「事件の謎を解く手がかりは、
すべて明確に記述されていなくてはならない」。

あるいは、
「探偵は論理的な推理によって
 犯人を決定しなければならない」。

それからこんなことも。
「占いや心霊術、読唇術などで
 犯罪の真相を告げてはならない」。

推理小説とはいわば、作者と読者の謎解きゲーム。
ゲームをおもしろくするには厳格なルールがなければならない。


ミステリーの夜③コナン・ドイル

1882年、スコットランドの若い医者が
眼科を専門とする診療所を開いた。
しかし、客足はさっぱりだった。

暇をもてあました彼は、
小遣い稼ぎのために小説を書き始める。
探偵が主人公の推理小説だった。

小説を書き上げると原稿をいくつかの出版社に送った。
しかし、出版社からはことごとく掲載を拒否され、
数カ月後にようやく採用されたものの、
原稿料はたった25ポンドだった。

その小説が『緋色の研究』。
アーサー・コナン・ドイルのデビュー作にして、
探偵シャーロック・ホームズを生み出した作品である。

まったく、人生には何が起きるかわからない。


ミステリーの夜④シャーロック・ホームズ

かの名探偵シャーロック・ホームズは一度殺害されたことがある。
犯人は誰あろう、作者のコナン・ドイルである。

ホームズの一連の作品によって
人気作家となったコナン・ドイルだが、
彼が本来書きたかったのは推理小説ではなかった。

そこで、ドイルはシリーズに終止符を打つべく、
『最後の事件』という小説を執筆し、
水煙を上げる滝壺の中にホームズを突き落とした。

ところが、事の顛末はドイルの目論見どおりに進まなかった。

シャーロック・ホームズの死に納得のいかない読者から、
抗議の手紙が出版社に殺到する。
その声におされてドイルはホームズの復活を決心するのである。

作者に殺され、読者に命を救われる。
名探偵の人生はじつに波乱に満ちている。


ミステリーの夜⑤フィリップ・マーロウ

作家レイモンド・チャンドラーが生みだした探偵、
フィリップ・マーロウ。

古今東西、さまざまな探偵がいるけれど、
彼ほど魅力にあふれる探偵はいないだろう。

貧しいけれど、誇り高い。
男らしく正義感が強いが、
女性らしい繊細さも持ち合わせている。

そんな彼だけに、粋なセリフがよく似合う。

「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」

「タフでなければ生きて行けない。
 優しくなければ生きている資格がない」

フィリップ・マーロウ。
その名はハードボイルドの代名詞。


ミステリーの夜⑥刑事コロンボ

くたびれた背広に、着古したレインコート。
櫛の通っていないボサボサの髪の毛。
いつも安物の葉巻を持ち歩き、
ところかまわず吹かそうとする。
口癖は「うちのカミさんがねぇ」。

テレビドラマから生まれ、
俳優ピーター・フォークが演じた刑事コロンボ。
風貌は冴えないが、
鋭い推理で知能犯の犯行を暴き、人気を博した。

 あのー、ちょっといいですか?

コロンボにそう声をかけられたが最後、
犯人はもう落ちるしかない。


ミステリーの夜⑦ヒッチコック

サスペンスの神様、アルフレッド・ヒッチコックは、
「サスペンス」と「スリル」と「ショック」の違いについて、
こう説明している。

乗るべき汽車の時刻に間に合うかどうかと必死に駅に駆けつける。
これがサスペンス。

ホームに駆け上がり、発車間際の列車のステップにしがみつく。
これぞスリル。

座席に落ち着き、ふと考えなおしてみると、
自分が乗るはずの列車じゃなかった、と悟るその一瞬がショック。

夜の長いこれからの季節。
ヒッチコックの映画を観て、ドキドキしてみませんか?

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蛭田瑞穂 10年10月10日放送



1.東京オリンピックを支えた人々「北出清五郎」

1964年の今日、東京オリンピックの開会式が開かれた。
敗戦から19年、オリンピックの開催は日本国民の悲願だった。

テレビから流れる開会式の模様を、
多くの日本人が万感の思いで見つめる中、
中継を担当したアナウンサー北出清五郎は、
こんな言葉で実況を始めた。


 世界中の青空を全部日本に持ってきてしまったような、
 素晴らしい秋日和でございます。

1964年10月10日の青空。
それは日本の復興を祝うかのような美しい青空だった。



2.東京オリンピックを支えた人々「亀倉雄策」

日本を代表するアートディレクター、亀倉雄策。
彼の名を世界に広めたのが、
1964年の東京オリンピックのポスターである。

亀倉は真夜中の競技場に4台のカメラと
50台のストロボを運び込み、
陸上選手の撮影をおこなった。

スタートダッシュと、シャッターを切るタイミングを
完璧に合わせるために、選手たちは肉体の限界を超える
30回ものダッシュを繰り返したという。

オリンピック競技の躍動感と緊迫感が
凝縮された一枚のポスター。

それはオリンピックの本質を
見事に表現しているだけでなく、
日本のグラフィックデザインのレベルを
世界に示すポスターだった。



3.東京オリンピックを支えた人々「フレッド・和田勇」

東京オリンピックの成功の裏にひとりの日系人の尽力があった。
彼の名は、フレッド・和田勇。

和田とオリンピックの関わりは、
1949年にロサンゼルスで開かれた全米水泳選手権に始まる。

当時まだ戦争の禍根の残るアメリカで、
日本人選手団が泊まれるホテルはなかった。
その時、和田は自宅を宿泊場所として提供し、
親身に選手たちの世話をした。

それが縁となり、のちに東京オリンピックの準備委員に就任。
南米の国々を訪問し、各国のオリンピック委員たちに
東京開催の協力を依頼してまわった。
その渡航費用などはすべて自費でまかなったという。

1964年10月10日。
東京オリンピックの開会式をロイヤルボックスから眺めていた和田は、
止めどなく涙を流しながらこう言った。


 日本はこれで一等国になったのや。
 戦争に敗れて四等国になったが、よう立ち直った。
 日本人は皆よう頑張った。



4.東京オリンピックを支えた人々「勝見勝」

オリンピックの競技種目や、
会場内の施設を案内するためのサインマークを
ピクトグラムという。

初めて採用されたのは1964年の東京大会。
美術評論家の勝見勝をディレクターに、
30人ほどのデザイナーが集まって制作された。

世界中からやってくる言葉の異なるお客さまに、
一目で情報がわかるように。

オリンピックのピクトグラムには
そんな日本人のもてなしの心が隠されている。



5.東京オリンピックを支えた人々「平沢和重」

1959年5月26日。
次期オリンピック開催地を決めるIOC総会が
ドイツのミュンヘンで開かれた。

開催地に名乗りを上げていたのは、
東京など4都市。

各都市が順にプレゼンテーションをおこなう中、
東京を代表してスピーチをおこなったのが、
当時テレビ局の解説委員を務めていた、平沢和重だった。

45分の持ち時間があったにもかかわらず、
平沢は15分でスピーチを終わらせた。

その簡潔な内容に、彼が話し終えると
会場から大きな拍手が湧き上がった。

東京の未来を決めたわずか15分のスピーチ。
その中で彼はこう訴えた。


 西欧の人々は、日本をファーイーストと呼びますが、
 ジェット機時代を迎えたいま、ファーではありません。
 国際間の人間同士のつながり、接触こそが
 平和の礎ではないでしょうか。



6.東京オリンピックを支えた人々「安川第五郎」

1964年10月10日に開催された東京オリンピックの開幕式。
前日までの東京は暴風雨が吹く荒れた空模様だった。

開幕式の中止さえ危ぶまれる中、
東京オリンピック組織委員会会長の安川第五郎は、
天に向かって、ひたすら晴れを祈り続けた。

その甲斐あってか、当日は抜けるような青空になった。
後年、安川は事あるごとにこんな言葉を人に贈ったという。

「至誠通天」。

心を持って祈れば天に通じる、という意味である。



7.東京オリンピックを支えた人々「坂井義則」

オリンピックの聖火を運ぶ最終ランナーは、
過去のメダリストなど、
著名なスポーツ選手が務めることが通例になっている。

しかし、1964年の東京オリンピックの最終ランナーは、
酒井義則という、早稲田大学競走部の学生だった。

輝かしい実績があるわけでもない学生が
最終ランナーに選ばれた理由。
それは彼が1945年8月6日に広島に生まれた若者だったから。

原爆投下直後に生を受けた聖火ランナー。
それは平和の祭典にふさわしい人選だった。



8.東京オリンピックを支えた人々「市川崑」

巨匠、市川崑が総監督を務めた
ドキュメンタリー映画『東京オリンピック』。

市川崑は監督を任命されると、
谷川俊太郎など3人の作家に協力を依頼し、脚本づくりを始めた。

そこで生まれたのが「人類の平和」というテーマだった。

完成した映画は、単なる記録映画を超えた芸術性の高い作品になり、
カンヌ映画祭の国際批評家賞も受賞した。

映画の最後はこんなメッセージで締めくくられる。


 聖火は太陽へ帰った。
 人類は4年ごとに夢を見る。
 この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか。

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蛭田瑞穂 10年09月19日放送



宇宙のはなし①「ムーンイリュージョン」

ビルや山の合間にあらわれた月が、
いつもより大きく見えたことはありませんか?

地平線の近くにある月が、
真上にある月より大きく見えるこの現象。
名前を「ムーンイリュージョン」という。

なぜ大きく見えるのか。
アリストテレス、プトレマイオス、デカルト、ガウス、
古代から名だたる賢人たちがこの不思議の解明を試みた。

目の錯覚、光の屈折、心理作用。
さまざまな説があるけれど、
こんな幻想的な謎は、できれば謎のままにしておきたい。



宇宙のはなし②「レイリー卿」

空はどうして青いの?
そんな質問をされたら、あなたはなんて答えますか?

空の青さ。
それは光の性質に関係がある。

太陽の光は地球に届くと、大気中の塵にぶつかって反射をする。
あらゆる色が存在する光の中でも、青色の光は波長が長く、
さまざまな角度に反射して拡散する。
そのため、空一面が青く見えるのだという。

この原理を発見したのは
イギリスの物理学者ジョン・ウィリアム・ストラット。
男爵だった彼は、「レイリー卿」の通称で呼ばれていたため、
この光の作用も「レイリー散乱」と名づけられた。

空が青い理由。
それは、つまり、こういうわけなのです。



宇宙のはなし③「川口淳一郎」

2003年に打ち上げられた惑星探査機「はやぶさ」。
そのミッションは地球から3億キロ離れた
小惑星イトカワに着陸し、表面のサンプルを持ち帰ること。

そのサンプルには46億年前、
太陽系誕生の秘密を解く鍵が隠されているという。

月以外の惑星からサンプルを持ち帰る、人類初の壮大な試み。
それだけに度重なる危機がはやぶさを襲った。

姿勢制御装置の故障、通信機能の不能、イオンエンジンの停止。
しかし、その度にはやぶさは危機を乗り越え、
ついに2010年6月13日、再びその姿を地球にあらわす。

最後の大仕事は、サンプルを入れたカプセルの切り離し。
それに無事成功すると、はやぶさはそのまま大気圏に突入。
花火のように燃え尽きた。

はやぶさプロジェクトのマネージャー、川口淳一郎はこう語る。


 絶望的な危機を何度となく乗り越え、
 カプセルを地球に送り返す大役を成し遂げたあとで、
 みずからは日本国民の心に残る“不死鳥”になったのです。



宇宙のはなし④「ジョージ・ガモフ」

宇宙のはじまりは超高密度で、超高温の小さな火の玉だった。

1946年にアメリカの物理学者
ジョージ・ガモフが提唱した「ビッグバン理論」。

だが当時の科学者の多くはその説に否定的だった。

「ドカンという爆発から宇宙が生まれたとでもいうのかね?」。
「ビッグバン」という名前もそんな皮肉からつけられた。

しかし現在、ビッグバン理論は
宇宙の起源に関するもっとも有力な説。

コペルニクスの昔から、
常識を覆す発見はなかなか理解されないらしい。



宇宙のはなし⑤「オルバースとハッブル」

どうして夜空は暗いのだろうか。
太陽が出ていないから?
どうやら話はそう簡単ではないようだ。

19世紀の天文学者ハインリヒ・オルバースは
こんな疑問を投げかけた。


 もし宇宙が無限であり、無限の星が存在するなら、
 無限の星の輝きで夜空は明るくなるはずだ。

これを「オルバースのパラドクス」という。
あきらかな矛盾とわかりながらも、
誰も矛盾を解決できなかった。

このパラドクスに答えが出たのは、
20世紀になり、天文学者エドウィン・ハッブルが
「ハッブルの法則」を発表してから。


 すべての銀河が私たちから遠ざかり、
 しかも、遠くにある銀河ほどより速い速度で遠ざかる。

つまり、宇宙は光より速い速度で膨張している。
そのため、すべての星の輝きが地球に届かないのだ。

夜空の暗さ。
それはこの瞬間も宇宙が膨張を続けていることの
たしかな証なのである。



宇宙のはなし⑥「小柴博士」

「この世に摩擦がなければどうなるか?」
こんな問題を出されたら、あなたはなんと答えますか?

ニュートリノの検出による多大な功績で、
ノーベル物理学賞を受賞した、小柴昌俊博士。

博士が大学院時代、高校の試験に出題したのが、
「この世に摩擦がなければどうなるか?」という問題。

答えは、「白紙の答案」。

摩擦がなければ、鉛筆の先が滑って答えが書けない。
ゆえに白紙の答案が正しい解答なのだと言う。

科学者の頭はやはり型破りである。



宇宙のはなし⑦「アルベルト・アインシュタイン」

宇宙観測の歴史は、
17世紀の初めに、ガリレオ・ガリレイが
手づくりの望遠鏡を覗いたことがはじまりと言われている。

それ以来、人間は地球という小さな星の中から
広大な宇宙を眺め、その謎を突き止めようとしてきた。

相対性理論を完成させ、
「現代宇宙論の生みの親」と呼ばれる、
アルベルト・アインシュタインは言う。


 この宇宙でもっとも理解不能なこと、
 それはこの宇宙が理解可能であることだ。



宇宙のはなし⑧「カール・セーガン」

作家、カール・セーガン。
地球外生命体との接触を描いたSF映画『コンタクト』の原作者。

彼はフィクションの中だけでなく、
現実の世界でも宇宙との交信を試みた。

1972年、セーガンは地球と人類に関する情報を金属板に描き、
木星探査機パイオニア10号の機内に取り付けた。

それは人類が初めて送った宇宙への手紙だった。

残念ながらセーガンは
その成果を見届けることなく1996年に他界する。

だが、木星の探査を終えたパイオニア10号は、
地球から53光年離れた恒星アルデバランに向かって
現在も旅を続けている。

私たちの知らない誰かに見つけられるために。

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蛭田瑞穂 10年08月29日放送



イングリッド・バーグマンを偲んで①
「アルフレッド・ヒッチコック」


アルフレッド・ヒッチコックは
『山羊座のもとに』という映画で
カメラの長回しを多用する撮影手法を試みた。

すると、主演のイングリッド・バーグマンが彼に詰め寄った。
「どうしてそんな面倒な撮影をしなければならないの?」

口論の嫌いなヒッチコックは最初黙って聞いていた。
しかし「なぜ?」「どうして?」という
彼女の度重なる追及に辟易し、しまいにはこう言い放った。


 イングリッド、たかが映画じゃないか。

サスペンスの神様ヒッチコックに
「たかが映画」と言わせたイングリッド・バーグマン。

その女優魂には畏れ入るしかない。



イングリッド・バーグマンを偲んで②
「エレットラとイザベラ」


2007年、コスメティクスブランドのランコムは、
ブランドの美の象徴であるミューズに、
イタリア人モデルのエレットラ・ロッセリーニを選んだ。

エレットラ・ロッセリーニの母親は、
イザベラ・ロッセリーニ。
映画『ブルーベルベット』の主演女優として知られる彼女は、
やはりランコムのミューズを長い間務めた。

そして、イザベラ・ロッセリーニの母親が、
イングリッド・バーグマン。

イングリッドの残した美の遺産は、
こうして脈々と受け継がれている。



イングリッド・バーグマンを偲んで③
「ティ・アーモ」


1948年、イングリッド・バーグマンは
ブロードウェイの小さな映画館で、
イタリアの巨匠ロベルト・ロッセリーニ監督の
『戦火のかなた』という映画を観た。

衝撃的だった。

ロマンス映画にばかり出演してきたイングリッドにとって、
戦争の悲劇を克明に描いた『戦火のかなた』こそ
本物の芸術だと思えた。

この監督の作品に出たい。
その一心でイングリッドはロッセリーニに向けて手紙を書く。


 もしスウェーデン人の女優が必要でしたら、
 わたしは「ティ・アーモ」しかイタリア語は知りませんが、
 喜んでイタリアへ行って、
 あなたといっしょに映画を作るつもりです。

イングリッドがロッセリーニに対して抱いた気持ちは
最初、純粋に尊敬の念だった。
しかし、それがいつしか愛へと変わる。
そしてついには仕事も家庭も捨て、
ロッセリーニのもとへ走ることになる。

「ティ・アーモ」。
彼女が唯一知っていたイタリア語は、
奇しくも「あなたを愛しています」という言葉だった。



イングリッド・バーグマンを偲んで④
「君の瞳に乾杯」


「君の瞳に乾杯」。

映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガードが
イングリッド・バーグマンに囁く有名なセリフ。

もとの英語は“Here’s looking at you, kid.”、
直訳すると「君を見つめることに乾杯」という意味になる。

このセリフを「君の瞳に乾杯」と訳したのは、
昭和の名翻訳家、高瀬鎮夫。

彼は原文にはない「瞳」という言葉を加えて、あえて意訳をした。
そうすることで、このセリフの持つ甘美で切ないニュアンスを
日本人にも伝わるようにしたのだ。

『ゴッドファーザー』や『サタデーナイト・フィーバー』など、
数々の字幕制作に携わり、洒落た翻訳で知られた高瀬鎮夫。

映画『ある愛の詩』の名セリフ、
「愛とは決して後悔しないこと」も彼によるものである。



イングリッド・バーグマンを偲んで⑤
「後悔」


1957年1月19日。
ニューヨークのアイドルワイルド空港に降り立った
イングリッド・バーグマンを待ち受けていたのは、
大勢の新聞記者とカメラのフラッシュだった。

映画監督ロベルト・ロッセリーニとの
不倫スキャンダルによって、
イングリッドは長らくハリウッドを追われていた。

その彼女が、ロッセリーニとの破局の末、
再びアメリカに戻ってきたのだ。

記者から辛辣な質問が飛ぶ。
「ミス・バーグマン、
あなたは自分の行動を後悔してないのですか?」

その質問に対して、
イングリッドは微笑みを浮かべてこう答えた。


 いいえ。
 わたしが後悔しているのは、
 しなかったことに対してであって、
 したことを後悔してはいません。

スキャンダルを乗り越え、
のちにオスカーも獲得したイングリッド・バーグマン。
彼女は美しいだけでなく、強い女性だった。



イングリッド・バーグマンを偲んで⑥
「As Time Goes By」


その日、ロンドンの
聖マルタン・イン・ザ・フィールズ教会には
亡くなったイングリッド・バーグマンにお別れを言うために、
200人の人々が集まった。

追悼の言葉と歌が捧げられると、
教会の片隅からバイオリンの音色が聴こえてきた。

それは彼女の代表作『カサブランカ』のテーマ曲
“As Time Goes By”だった。

知性的な美貌と、オスカー主演女優賞に2度も輝く演技力で、
世界中の映画ファンを魅了したイングリッド・バーグマン。

彼女は1982年の今日、67年の生涯に幕を閉じた。

この世から去った後も、
イングリッドは人々の思い出の中で輝き続ける。
“As Time Goes By”
どんなに時が流れても。



イングリッド・バーグマンを偲んで⑦
「薔薇の名前」


2000年に開催された第16回世界バラ会議で、
「イングリッド・バーグマン」という品種が
史上10番目の「バラの殿堂」に選ばれた。

その薔薇の名はもちろん
女優のイングリッド・バーグマンに由来する。

深紅の花びらが醸し出す高い気品と燃えるような情熱。
それは彼女の魅力そのもの。

かつて銀幕の花として、多くの人々を魅了した
イングリッド・バーグマン。
彼女はいま薔薇となって人々を魅了し続ける。



イングリッド・バーグマンを偲んで⑧
「カサブランカ」


映画史上最高の脚本は何か?

アメリカ脚本家協会によれば、
それは『カサブランカ』である。

2006年、アメリカ脚本家協会は
「史上最高の映画脚本ベスト101」の第1位に、
『カサブランカ』を選出する。

この脚本を執筆したのは、ジュリアス・エプスタイン、
フィリップ・エプスタイン、ハワード・コッチの3人の脚本家。


 「ゆうべはどこにいたの?」
 「そんなに昔のことは憶えてないね」
 「今夜は会えるの?」
 「そんなに先のことはわからない」

イングリッド・バーグマンと
ハンフリー・ボガードが交わす男と女の粋な会話。
1943年のアカデミー脚本賞も受賞した『カサブランカ』には
珠玉のセリフが溢れている。

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蛭田瑞穂 10年07月04日放送

7月4日にちなんで① フェレンツ・プスカシュ

1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。

ハンガリー代表チームのキャプテンは、
今なおハンガリー史上最高の選手として語り継がれる
フェレンツ・プスカシュ。

18歳で代表にデビューしたプスカシュは、
29歳で代表を退くまで84試合に出場し、
83ものゴールを決めた。

1度ボールを蹴っただけで2点を奪う。

とチームメイトが賞賛するほど

圧倒的な決定力だった。

スイス大会の決勝戦。
前半の6分にハンガリーの先制ゴールを挙げたのも
やはりプスカシュだった。

7月4日にちなんで② シュベシェ・グスターヴ

「マジック・マジャール」。
1950年代の始めに、世界を席巻した
サッカーハンガリー代表チームを、人々はそう呼んだ。
「魔法のハンガリー人」という意味である。

1950年からの4年間で32戦無敗。
ヘルシンキオリンピックでは金メダルを獲得し、
サッカーの母国イングランドを
聖地ウェンブリーで破るという快挙も遂げた。

マジック・マジャールの強さの秘密。
そのひとつが監督シュベシェ・グスターヴの
構築したサッカーシステム。
試合中に選手が臨機応変にポジションを変える、
当時としては画期的なシステムだった。

1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。

シュベシェ率いるハンガリーは
前半わずか8分で2点を奪い、その強さを見せつけた。

7月4日にちなんで③ ゼップ・ヘルベルガー

1954年の7月4日に行なわれた
ワールドカップスイス大会、
ハンガリー対西ドイツの決勝戦。

両チームはその2週間前にも
予選リーグで顔を合わせていた。
結果は8対3でハンガリーの圧勝。
西ドイツの監督、ゼップ・ヘルベルガーは、
マスコミから「国家の裏切り者」という汚名を着せられた。
しかし、この負けは彼の計算だった。

ハンガリーに敗れて予選を2位で通過すれば、
強豪国との対戦が少ない組み合わせで
決勝トーナメントを戦うことができる。

先の勝負を読んだヘルベルガーは
ハンガリー戦であえて主力選手を温存して戦った。

一方、西ドイツに勝利し、
予選を1位で通過したハンガリーは
ブラジルなど強豪国との死闘を勝ち抜いて
決勝戦まで進んだものの、
主力選手は満身創痍の状態だった。

そして決勝戦。
前半の8分に2点目を奪われた西ドイツは
2分後に1点を返す。
それは西ドイツが上げた反撃の狼煙だった。

7月4日にちなんで④ 西ドイツ代表チーム

それは「ゲルマン魂」を
初めて世界に見せつけた試合だった。

1954年7月4日、スイスのベルンで行なわれた
ワールドカップ決勝戦、ハンガリー対西ドイツ。

当時「魔法のハンガリー人」と呼ばれ、
無敵の強さを誇ったハンガリーを
西ドイツは3対2で下し、初優勝する。
2点差を覆す、見事な逆転劇だった。

その勝利はまだ第2次世界大戦敗戦の傷が癒えていない
西ドイツ国民に勇気と自信を与えた。

その後、敗戦からの奇跡的な復興を遂げ、
ワールドカップでも3度の優勝を果たしたドイツ。

1954年7月4日の勝利を人々は
「ベルンの奇跡」と呼び、今に語り継ぐ。

7月4日にちなんで⑤ アルフレッド・ディ・ステファノ

今も昔もサッカー好きが集まると口にする
「史上最高のサッカー選手は誰か?」という話題。
サッカーの王様ペレはこう答えている。

史上最高の選手はペレかマラドーナだと
みなさんは言うが、わたしにとって最高の選手は
アルフレッド・ディ・ステファノだ。

アルフレッド・ディ・ステファノ。
1943年、17歳でアルゼンチンの名門
リバープレートと契約した彼は、
すぐに頭角を現し、2度の得点王に輝く。
その後コロンビアリーグに籍を移し、得点王を2度獲得。
そして27歳でスペインのレアル・マドリードに移籍する。

彼の移籍を巡っては、
レアル・マドリードとバルセロナの間で
当時の最高権力者フランコ将軍が仲裁に乗り出すほど
熾烈な争奪戦が繰り広げられたという。

チームに在籍した11シーズンで
決めたゴールは466。8度のリーグ優勝、
そしてヨーロッパNo.1のクラブチームを決定する
チャンピオンズカップの5連覇という偉業も遂げた。

現在、レアル・マドリード名誉会長にして、
今なおチーム歴代最高の選手といわれる男、
アルフレッド・ディ・ステファノ。

彼は1926年の今日、ブエノスアイレスに生まれた。

7月4日にちなんで⑥ モード・ワトソン

テニスのウィンブルドン選手権には
白い衣服を着てプレーしなければならない
という決まりがある。

これは1844年、女子シングルス初代王者
モード・ワトソンが白い衣服で
プレーしたことに由来する。

白い帽子、白いブラウス、
そしてくるぶしまである白のロングスカート、
モード・ワトソンのテニスウェアは、
鮮やかな白でまとめられていた。

2010年のウィンブルドン選手権は
イギリス時間の今日7月4日、最終日を迎える。

ウィンブルドンの緑の芝が
ひときわ美しく感じられるのは、
名物の雨と、白いウェアのおかげかもしれない。

7月4日にちなんで⑦ シュテフィ・グラフ

1996年7月4日。
ウィンブルドンの女子シングルス準決勝、
シュテフィ・グラフ対伊達公子。

2セット目の第7ゲーム。
グラフがサーブの態勢に入ると、
突然、観客のひとりが大声で叫んだ。

「シュテフィ、僕と結婚して!」

笑い声に包まれる場内。
緊張の糸が切れてもおかしくない状況に、
しかし彼女はこう応えた。


あなたお金は持ってるの?

野次に動揺するどころか、
ユーモアで切り返したシュテフィ・グラフ。

あまりに見事なリターンエースだった。

7月4日にちなんで⑧ スザンヌ・ランラン

「テニスの女神」スザンヌ・ランラン。

1920年代にウィンブルドンを5連覇し、
全仏選手権も6度制覇した伝説の選手。

彼女の偉業はそれだけではない。
その時代、テニスは社交のための優雅な遊び。
女性は長いスカートを穿いてプレーしていた。

しかし、ランランはそんな恰好では動きにくいと、
スカートを膝の高さで切ってしまった。
それ以降、女性のテニスウェアは短いスカートが主流となり、
テニスの競技性が一気に増したといわれている。

今日7月4日は、スザンヌ・ランランが
39歳で亡くなった日。

短い生涯で彼女が残した功績はあまりに大きい。
現在、全仏オープンテニスの
女子シングルス優勝者に贈られるカップには
スザンヌ・ランランの名前が刻まれている。

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