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阿部広太郎 13年12月29日放送



鬼が笑った話 三國連太郎

30代なかばで老け役を演じるため、
上下の歯10本を麻酔もかけず引き抜いた。
役作りのためなら手段を選ばない、
「演技の鬼」と言われた三國連太郎である。

ある時は、浮浪者の心理を探るために、
ボロボロの格好で街中のカップルを脅し、
逮捕されそうになったこともある。

硬派な演技派俳優として知られたため、
「釣りバカ日誌」の温厚でコミカルな社長役は、
当初、本人は不本意だったようだ。
「昔の義理で出演している」
インタビューなどでもしばしばそう語っていた。

人が役をつくるのか。役が人をつくるのか。
20年続いたシリーズ最終作『釣りバカ日誌20 ファイナル』の
記者会見で三國はこうスピーチしている。

「混迷の映画界の中で暗中模索した冒険のような作品。
 スタッフの作品作りに対する情熱は日本映画史に永遠に残る。
 僕にとって生涯の仕事だった。」

演技の鬼は
日本中から愛される「スーさん」として、
スクリーンの中で楽しそうに笑っていた。

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阿部広太郎 13年12月29日放送


もがみますみ
鬼が笑った話 戸山為夫

競馬はブラッドスポーツ。
血統という意味の通りサラブレッドは、
徹底的に追及された血の結晶である。

そんな競馬界の常識に挑んだのは、
「鍛えて最強馬をつくる」調教師、戸山為夫。

良血とはいえないミホノブルボンに対し、
大抵の馬が1、2本で音を上げる坂路コースを、
多い時には5本も走らせた。

「馬は勝たないと生き残れない。
 心を鬼にしてでも鍛えて勝たせるのが馬のためだ」

日本ダービーを圧勝し、
皐月賞との二冠を達成したミホノブルボン。
そこには調教の鬼の惜しみない笑顔があった。

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阿部広太郎 13年9月22日放送



ナンバー2の男 土方歳三

新撰組の鬼の副長、土方歳三。
クセ者揃いの新撰組のまとめ方は、
嫌われ役に徹することだった。

隊からの命令、方針の決定は、
隊長近藤勇からではなく、
ナンバー2の土方が隊員に伝えた。

当然、怒りや憎しみを買う。
しかし土方はこの方法を全うした。

土方は、近藤勇にこう言ったという。

あんたは総師だ。
生身の人間だと思っては困る。
奢らず、乱れず、
天下の武士の鑑であってもらいたい。

新撰組への覚悟の強さは、
土方が一番だったのかもしれない。

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阿部広太郎 13年9月22日放送


ivva
ナンバー2の男 加藤正夫

タイトルを懸けた決勝戦で8連敗。
万年ナンバー2の囲碁棋士、加藤正夫は、
同門の石田芳夫九段に相談した。

加藤さんはすべての面でまじめすぎる。もっと遊びなさい。

それから加藤は数々のタイトル奪取に成功。
ついには名誉王座の称号まで手にする。

楽しむことで人は強くなれる。
加藤は誰よりも囲碁を楽しんだのだ。

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阿部広太郎 13年9月22日放送



ナンバー2の男 橋爪四郎

第二次世界大戦後、
水泳界で次々と世界記録を打ち立て、
「フジヤマのトビウオ」の異名を取った古橋広之進。
その裏には、橋爪四郎というもうひとりのトビウオがいた。

古橋と橋爪は水泳部の先輩後輩。
いつも一緒にレースに出場し、名勝負を演じた。
結果はいつも古橋がナンバー1、橋爪がナンバー2だった。

1948年の日本選手権、自由形決勝。
橋爪が先行していたが、ラストスパートで古橋が抜き去り、優勝。
世界新記録を出した古橋は「負けたくなかった」と語った。

2009年、橋爪は古橋の悲報に触れこう語った。

ヒロさんとともに競技できたことを誇りに思う。
お陰で何者にもまねのできない選手生活を送ることが出来た。

歴史に残る世界記録は、
ふたりで生み出していたのだ。

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阿部広太郎 13年8月11日放送



帰りたくなる話 伊達政宗

仕事の都合で転勤を強いられる。
それは昔の大名たちも同じだった。

天下を統一した豊臣秀吉に、伊達政宗は嘆願する。

「米沢は生れ故郷であるからこの地に置いていただきたい」

しかし願いは聞き入れられず、
政宗は仙台に移ることになった。

のちに徳川の命で越後高田の城を築いた帰り、
故郷米沢で詠んだ歌が残っている。

 故郷は 夢にだにさえ 疎からず 現になどか めぐり来にけん

懐かしむ思いの強さは、
ふたたび離れるつらさにもなったのだ。

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阿部広太郎 13年8月11日放送



帰りたくなる話 石川啄木

 石をもて 追はるるごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし

石川啄木にとって、
ふるさとである岩手県渋民村は
帰りたくても帰れない場所。
村を巻き込んだ争いで
一家は追われるように村を離れたのだ。

帰れないからこそ郷愁は募る。

 かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川

そんな啄木の思いが叶ったのは、亡くなって10年後のこと。
「地元に啄木の歌碑を」という声が高まり、
渋民公園に最初の歌碑が建てられたのだ。

 やはらかに 柳あをめる 北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

啄木の目に浮かんだ北上川の岸辺。
思い出の川を見下ろす丘の上に、その歌碑は立っている。

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阿部広太郎 13年8月11日放送



帰りたくなる話 大木金太郎

ジャイアント馬場、アントニオ猪木と並び、
得意技の頭突きでプロレス界を沸かせた大木金太郎。

彼の故郷は、韓国の南に位置する小さな島、居金島(コクムド)。
少年時代は、韓国伝統の相撲「シルム」に明け暮れる日々だった。
27歳の時、同郷の英雄・力道山に憧れた大木は、
島の誰にも告げず日本に渡った。
渡航費はシルム大会の優勝賞品の牛1頭を売って捻出した。

 「お前は韓国人だから頭突きをやれ。それがお前の生きる道だ」

大木は、力道山の言葉を愚直に守る。
首の骨にひびが入っても猛特訓を続けた。
朝鮮半島のケンカ技をヒントに編み出した、
片脚を高く上げて勢いを付ける頭突きスタイルで大活躍。

そして島を飛び出して7年後の1965年。大木はついに韓国へと凱旋する。
外国人レスラーを頭突き一発で倒していく大木は、一躍人気者に。
「パッチギ王」と呼ばれる国民的スターとなるのにそう時間はかからなかった。

プロレス興行を積極支援した当時の大統領、
朴正煕(パクチョンヒ)に望みを聞かれた大木は、
「故郷に電気を入れてほしい」と即答した。

工事はすぐに始まり、島に電気が通った。
夜間、ろうそくの火を頼りに海産物を加工していた
故郷の人たちへのプレゼントだった。

どれだけ大物になっても、故郷はいちばん大切な場所だったのだ。

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阿部広太郎 13年7月27日放送



眠りの話 五代目古今亭志ん生と酒

20世紀の落語界を代表する
名人と称される五代目古今亭志ん生。
無類の酒好きとしても有名だった。

関東大震災発生時には、
「酒が地面にこぼれるといけない!」と言って、
真っ先に酒を買いに走ったくらいである。

酒に酔って高座に上がったこともある。
真っ赤な顔に、怪しい呂律、挙げ句の果てには、
うつらうつらと居眠りすることも。
当然、噺は支離滅裂。だが、
その見たこともない姿が笑いを誘い、
当日客の拍手をいちばん浴びたのは志ん生だったという。

それは酒の力さえも芸に変えてしまう、
五代目志ん生の名人芸だったのかもしれない。

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阿部広太郎 13年7月27日放送



眠りの話 加山雄三の居眠り

「加山、眠いのか」

『椿三十郎』の撮影中、自分のセリフがないシーンで
堂々と居眠りする加山雄三を見て、監督の黒澤明は問いかけた。

つかつかと加山に歩み寄る黒澤。一気に凍りつく撮影現場。
加山は、ぶん殴られることを覚悟した。
しかし、飛んできたのは拳ではなく、誰もが驚いたこんな言葉だった。

「じゃあ加山のために休憩!」

25歳の若手俳優1人ために、撮影は3時間もストップ。
黒澤は、とにかく加山に甘かったという。

「加山、お前は白紙でいい」

のちに日本の若大将として愛される加山の素直さを、
大切にしたかったのかもしれない。

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