野口英世の20歳
医師開業試験に合格するために、
野口英世が医学書と格闘していた時のこと。
仕事で東京から福島に来ていた
医師の血脇守之助(ちわきもりのすけ)に、
激励の言葉をかけられる。
感激してますます勉強に力を入れた野口は、
20歳になって突然上京。
連絡も無しに血脇の家を訪れてこう言った。
「学院の玄関番、車引き、
なんでもするから使ってほしいのです」
プライドをかなぐり捨てた20歳の決意が、
のちに世界が誇る名医を生んだ。
明日は成人の日。
野口英世の20歳
医師開業試験に合格するために、
野口英世が医学書と格闘していた時のこと。
仕事で東京から福島に来ていた
医師の血脇守之助(ちわきもりのすけ)に、
激励の言葉をかけられる。
感激してますます勉強に力を入れた野口は、
20歳になって突然上京。
連絡も無しに血脇の家を訪れてこう言った。
「学院の玄関番、車引き、
なんでもするから使ってほしいのです」
プライドをかなぐり捨てた20歳の決意が、
のちに世界が誇る名医を生んだ。
明日は成人の日。
マリリン・モンローの20歳
セクシーの中に垣間見せるチャーミングさで、
世界中の男性を虜にしたマリリン・モンロー。
彼女の芸能人生のはじまりはモデルだった。
16歳からはじめるも、鳴かず飛ばず。
20歳になって心機一転。
20世紀フォックスのオーディションに参加。
「女優」マリリン・モンローが
生まれたのはこの時のことだった。
契約を前に、モンローはこう言ったという。
「お金が欲しいんじゃない。
ただ、素晴らしい女になりたいの」
当時無名だったひとりの女優。
でも20歳の志は、すでに一流だった。
明日は成人の日。
アン・サリバンの20歳
アン・サリバンの人生は困難の連続だった。
3歳の時に目の病気にかかり、
5歳の時にはほとんど見えなくなっていた。
その上、9歳の時に母を亡くし、
その悲しみから父はアルコール依存症になってしまう。
盲学校に入学したサリバンは、
学校での訓練と手術の結果、ある程度の視力の回復を果たす。
悲しい過去を乗りこえてきた自信、
道を切り開こうとする意志が、彼女を勉強に駆り立てる。
最優秀の成績で盲学校を卒業したサリバン。
そこに声がかかったのが、
「目と耳が不自由な子どもの家庭教師」だった。
その子どもこそ、ヘレン・ケラー。
サリバン、20歳。新たな困難への挑戦だった。
「失敗したら初めからやり直しなさい
その度にあなたは強くなっていきます」
ヘレン・ケラーに言ったこの言葉は、
困難に挑み続けてきた20年の実感に違いない。
明日は成人の日。
Maantjuh&Mosselmaniac
起業家という生き方 劉金標(キング・リュウ)
台湾でウナギの養殖業を営んでいたキング・リュウ。
あるとき台風の被害で破産寸前となった彼は、
1972年、自転車製造業に転身。
欧米有名ブランドの製造を請負いはじめた。
しかし初年度の受注は、たった1821台。
「Made in Taiwan」といえば
品質が悪いと思われていた時代。
キングは欠陥がひとつでも見つかると、
同じ生産ラインの自転車をすべて回収し
ローラーで押しつぶした。
それから40年。
彼のオリジナルブランド「ジャイアント」は、
世界最大のスポーツバイクブランドへと成長する。
「Made in Taiwan」は、信頼のしるしになったのだ。
起業家という生き方 フレデリック・ジョン・ペリー
テニスプレーヤー、フレデリック・ジョン・ペリー。
その経歴は、輝かしい偉業に満ちている。
1934年からウィンブルドン3連覇。
1935年には、男子テニス選手初のグランドスラムを達成。
テニスの神様とまで呼ばれるようになった。
プレーヤーを退くと彼は会社を起こし、
ファッションビジネスに挑戦する。
ブランド名は、自らの愛称「フレッドペリー」。
だぶだぶのシャツが当たり前の時代に、
身体にフィットするシャツを開発。
革新的でカッコ良いと、イギリスで瞬く間に浸透していく。
胸に輝く月桂樹のロゴ。
それは王者のつくった、挑戦する服のしるしだった。
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 1
日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジは、
日本にスポーツマンシップを広めた男でもある。
明治時代のボートの試合。
日本人選手は一位がゴールをすると、
その瞬間に漕ぐのをやめてしまう。
勝負を放棄するその「手抜き」を、
ストレンジは見過ごせなかった。
「スポーツで最も大切なことは、
互いにベストを尽くして戦うこと」
彼は生涯をかけて、
日本人にスポーツマンシップを語り続けた。
その結果は、
オリンピックを見た方ならおわかりだろう。
いまや手を抜く選手など、ひとりもいない。
たくさんの感動を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。
L’s Mommy
日本近代スポーツの父 F・W・ストレンジ 2
日本近代スポーツの父、
フレデリック・ウィリアム・ストレンジ。
彼は明治6年、英語教師としてロンドンからやってきた。
「スポーツの魅力を日本の学生にも知ってほしい」
スポーツマンでもあったストレンジは、
放課後に学生たちをグラウンドへ誘いはじめる。
しかし、彼の思いは届かない。
「勉強を一日休むと、日本が一日遅れる」
近代国家を支えるべく一心不乱に勉強する学生たちには、
スポーツに目を向ける余裕などなかったのだ。
ストレンジは諦めず、
彼らを参加させるための一計を案じた。
それまで日本になかった「運動会」を開催したのだ。
もちろん当時の日本に、専用の器具などない。
ハイジャンプ用のポールには竹竿を。
ハードルには学校のベンチを。
スタートの合図に使われたのは、
折り畳んだ黒いこうもり傘だった。
お祭りの要素もある運動会は、学校中を巻き込んで大賑わい。
ここから運動会は、日本中に広まっていく。
いま、ストレンジの故郷ロンドンで
「世界の運動会」が行われている。
日本人の活躍を彼が見たら、なにを思うのだろう。
たくさんの興奮を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。
日本サッカーの父 デットマール・クラマー
日本サッカーの父、デットマール・クラマー。
1960年にドイツから来日し
代表コーチに就任したクラマーは、
リフティングも満足にできない選手たちに愕然とし、
発破をかけた。
「ドイツにはゲルマン魂がある。
日本人にも素晴らしい大和魂がある。
私に大和魂を見せてくれ」
その8年後のメキシコオリンピック。
日本代表は銅メダルを獲得する。
死力を尽くし、試合後に倒れこむ選手たち。
クラマーも泣いていた。
メダルが嬉しかったのではない。
約束を守りぬいた教え子たちの姿に、
涙をこらえきれなかったのである。
たくさんの大和魂を、ありがとう。
きょうはロンドンオリンピック最終日。
Copyright ©2009 Vision All Rights Reserved.