桜のアパート
ストーリー 麻生哲朗
出演 マギー
いくつか見せてもらった部屋の中から
一番古くて、一番手狭だったこのアパートを選んだのは
窓の外を眺めていた僕に、不動産屋がつまらなそうに言ったからだ。
「あぁそれですか?桜の木ですよ」
夏の終わりの、蒸し暑い日だった。
僕にはしわくちゃのまま固められたようにしか見えなかった、
二階の部屋の、窓のすぐ外に見える、たった一本の細い木は、
まだ若い、桜の木らしかった。
会社の同僚たちが、遅い引っ越し祝いにかこつけて、大挙して訪れ
缶ビールを空けながら
「もうちょっといいとこがあったろう」とか
「どうも畳がしめっぽいよ」とか、好き勝手に盛り上がる中で
ひとつ年下の、少し前に長かった髪をバサリと切った
今まであまり話しをしたことのなかった女の子が、
窓の外を眺めてぽつりと言った。
「あれ、桜の木ですよね」
それからしばらく、夏が過ぎて、冬が来ても、
僕とその彼女は普通の同僚だった。
「あの桜がそろそろ咲くよ」
会社の中ですれ違った時の
それが僕なりのせいいっぱいの一言だったけれど
彼女がその言葉を待っていたのかどうかは、よくわからなかった。
そのアパートでの始めての春に
窓の外の、一本だけの桜は確かに咲いて
彼女は、4月最初の休日に、ケーキを手に、僕の部屋へやってきた。
僕たちの付き合いは、静かに始まった。
それから何度か、僕たちは桜の季節を一緒に過ごし
満開の時も、葉桜も、ふたりでそれを窓から眺めた。
桜の季節には、桜の話しをして
桜の咲かない季節には、それ以外の話しをした。
僕たちは普通の恋人同士で
僕たちの間にも普通の恋人同士のように、普通に色々なことがあった。
2年前、僕は窓の桜を、思えば初めて、一人で眺めた。
僕たちの付き合いは、終わり方もまた、静かだった気がする。
去年、やっぱり僕は窓の桜を一人で眺めていて
その桜がすっかり散った頃、
彼女が、故郷の誰かと結婚したという話を、人づてに聞いた。
夕方、ガムテープがなくなって買い物に出ると
まだ風は冷たく、春と呼ぶには少し早かったけれど
あと3週間も経てば、また桜は咲き始める。
ひと月前に新しく決めた部屋の窓から、桜の木は見えない。
代わりに、東京タワーの先っぽだけが、雑居ビルの隙間からのぞいている。
荷造りはほとんど終わった。
荷物は思ったより少なかった。
後は明日の朝、業者のトラックが来るのを待つだけだ。
最後にカーテンを外して段ボールに入れた。
むき出しになった窓の外には、あの頃より少し立派になった
まだ咲かない桜の木があって
その、別に毎年、春など待ってはいなかったような素っ気ない姿に、
僕はなんとなく、小さく会釈をした。
*出演者情報:マギー 03-5423-5904 シスカンパニー所属