僕には君がわからなかった
ストーリー 古川裕也
出演 片岡孝太郎
春になると、君は僕の耳元で、突然ヴィトゲンシュタインと3回ささやいた。
何日かそれをくりかえすと、今度は、エイゼンシュテインと3回ささやいた。
その完璧にコントロールされた吐息の質と量に僕は君の思惑通り興奮した。と
いうか、僕が興奮するまで君はそれをやめなかった。やがて僕の方がそれを期
待するようにさえなった。ルビンシュタインとささやかれたら興奮するだろう
か。ストラヴィンスキーだとどんな感じだろうかと。今となっては無邪気な思
い出だけれど、間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で飛びぬけて不思
議な女の子だったということだ。
春になると、僕たちはよくけんかをした。細かいことはいちいち覚えていな
いけれど、いちばん深刻なけんかの原因は、確か、八重洲ブックセンターの5
色あるしおりのうち、ふたりがいちばん好きなムラサキ色が一枚しかなくて、
それを取り合ったことだと記憶している。今から考えてもお互い譲れない問題
だったと思う。とくにその本が長編小説である場合、それは読後感に決定的な
意味を持つ。ジョイスを読んでるのにトルストイを読んでるような感じになる
ことすらある。それはよくない。喧嘩の決着がつかないと、君は必ず街の時計
台のいちばん上に登って降りてこなかった。春とはいっても、そこは寒い。た
ぶん。君は、またたくまに風邪をひいた。咳をしては、その振動で時計を3分
遅らせ、洟をかんでは7分、くしゃみをしては11分遅らせた。これは、街のヒ
トみんなの迷惑のみならず、僕たちが喧嘩をしていることを街中に知らせるこ
とも意味した。今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。
春になると、僕たちはよく散歩に出かけた。そうしてみると僕たちはそれな
りに似合いのカップルだったと思う。セーヌ河沿いも散歩したし、テムズ河沿
いも、テベレ河沿いも、ガンジス河沿いも、チグリスユーフラテス河沿いも、
黄河沿いも、多摩川沿いも。君は気持ちのいい春の空気に触れると必ず僕の耳
に噛付いた。しかもちぎれるまでやめなかった。ちぎった僕の耳をくわえる君
の顔には残忍さなど微塵もなく、むしろ愛情にあふれていて、僕はうれしかっ
たけれど、正直ちょっと痛かった。もういちど耳が生えてくるまで2週間くら
いかかったし。今となっては無邪気な思い出だけれど、間違いなく言えるのは、
君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女の子だったということだ。
春になると、とても悲しいことが起こる。君の17歳の妹が死んだのだ。葬儀
で妹のために自作の詩を読んだ君は美しく気高かった。今回の神様の行いを咎
める詩だった。“神様、あなたはときどきまちがえる”というような題の。美し
い喪服姿の君は葬儀が終わると僕の手をぐいぐい引っ張って行った。ある種興
奮してる様子だったので、僕のアタマの中には、エロスとタナトスとかジョル
ジュ・バタイユなどの単語が浮かんでいた。立ち止まった瞬間、ヴィトゲンシ
ュタインと耳元でささやかれると思っていたのだ。けれど、着いた先はなんの
変哲もない中華料理屋。僕がビールと餃子と焼きそばを食べてる間、君は、餃
子8人前はじめ店のメニュー全部平らげた。“悲しいときがいちばんおなかがす
くという真実を知ったわ”とか言いながら。喪服をラー油だらけにして。この
できごとで、僕はますます君を好きになった。今となっては無邪気な思い出だ
けれど、間違いなく言えるのは、君が僕が出会った中で飛びぬけて不思議な女
の子だったということだ。
僕には君がわからなかった。
こうして墓の下にいるとますますそう思う。
そして最後の春、なぜ君は僕を殺したんだろう。
あの日、あの時刻、たまたま気温が殺人に最適の19.4度になったから。
君がほんとうは猫であることに僕が気付いたから。
セックスではなく死を前にした男の耳に、
ヴィトゲンシュタインとささやいてみたかったから。
この3つのどれかの理由にちがいないと僕は思う。
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