しあわせの味(下)
津田の目の前に、由貴子が丼を、片手で置いた。
その動作のぞんざいさに一瞬驚く。怒っているのか。
津田は、上目遣いに由貴子の顔をみやる。
しかし、目に入ったのは、屈託のない笑顔。
「サムゲタン風のスープなんですよ」と由貴子が言う。
津田は、ほっとしながら、へえ?と大げさに声をあげてみせる。
「朝鮮人参が入ってるの。最近寒くなってきたでしょう」
「うん――あ、え?朝鮮人参?なんか、すごい、本格的」
「津田さん、先週、ちょっと鼻声だったから」
たしかに、その日は少し熱っぽく、風邪のひきはじめのような感覚がしていた。
――一週間、連絡はとらずとも心配はしてくれていたのか。
妻からは「大丈夫?」の一言もなかったというのに。
由貴子。優しい女だ。
「食べて」
由貴子に促されて津田はレンゲを手にとり、湯気のたつスープを一口すする。
やわらかであたたかいうまみが、口の内側にしみこんでいくのがわかる。
しっかりと時間をかけてとられた出汁。
この間のビーフストロガノフとは随分違うじゃないか。
「おいしい?」
「うん」
「よかった」
「しみるね」
「うれしい」
「味にトゲがない。無化調だね」
むかちょう、つまり化学調味料を使っていない、というラーメン好きのジャーゴン。
妻は知らない言葉。
「鳥のだし?でも、鳥よりこってりしてるね」
「サムゲタン『風』だから」由貴子の顔に頬笑みが広がる。
「次の課題は麺なんですよねえ」
由貴子が津田の向い側のイスに腰をおろす。
「津田さん、わたし、本当に反省しているの」
津田は麺をずず、とすする。
うん、たしかに、スープはこれだけピントがきたいい出来なのに、この麺はないよな。
スーパーで売ってる蒸し麺じゃさ。と津田は心の中で言う。
「この間はどうかしてたの」と由貴子は続ける。
丼を持ち上げてスープをすすりながら、その話か、もういいじゃないか、
と津田は思う。
「怒ってます?」
「怒ってないよ」
「ねえ、津田さん」
津田は丼から目をあげる。意外なほど近くに由貴子の顔があった。
「津田さんのためにこれからもずっと…ラーメンつくらせてくれる?」
由貴子のしおらしい言葉に、津田はあらためて安堵する。
やっぱり、ちゃんと反省してくれたんだな。それでこそ、由貴子だ。
手軽に会え、うまい料理をつくって待っていてくれる女。
麺も、これから改善されることだろう。
これを、ひょっとすると幸せと呼ぶのかもしれない。
津田はしみじみと、そのありがたみを感じた。
由貴子が笑顔で津田の顔をのぞく。
「津田さん」
「ん?」
「わたしのほうが、奥さんより、おいしい?」
「え」
「あ…ごめんなさい。へんなこと言って」
由貴子は笑みをくずさない。
「忘れて。もうこんなこと言わない」
「ありがと、由貴子」
津田は、由貴子の手をとろうと、右手を、向いにすわる由貴子のほうへのばす。
――女にはスキンシップが大切だ、と最近読んだ新書にも書いてあった。
だが、目に入った彼女の左腕に、津田は違和感を感じる。
カーデガンの袖の様子が、妙だ。
「由貴子。腕…どうしたの?」
「これ?」
由貴子が左腕をもちあげた。
肘から先15センチほどのところまでは、袖の中身がある。
しかし、その先は…脱がれた靴下のように力なくたれさがっている。
「見つかっちゃった」
由貴子が顔を赤らめる。
「え…?」
困惑する津田に、由貴子は微笑みを崩さず、訊く。
「ほんとに、おいしかった?」
そのとき、さっきから目にしてきたいくつかの情景が津田の頭の中でつながり、
ある予感を…悪い予感を結んだ。
片手でもちあげた、スーパーの袋。
サムゲタン「風」のスープ――
突き動かされるように津田はたちあがり、台所に走る。
背後で、由貴子の声がした。
「ねえ、津田さん、おかわりは?」
答えず、津田は鍋を覗きこむ。
鍋の中には、青ネギとともに、白くゆであがった何かがうかんでいた。
五本の骨が見え、それが…大事なものをつかむかのような形に曲げられているのが見えた。
みぞおちを締め上げられるような感覚に襲われ、津田は、後ずさりする。
その背中に、由貴子のやわらかい体がぶつかった。彼女の両腕が津田の胸に回される。
「おいしかった?」由貴子が繰り返す。
5秒ほど、沈黙があった。
津田はゆっくりと振り返り、由貴子の顔を見る。
「うん」
津田はうめくように言った。
「手作りだもんな」
出演者情報:水下きよし 花組芝居 http://hanagumi.ne.jp/
動画制作:庄司輝秋