タクシーで泣いたことが、いちどだけある。
美大を出たわたしは、東京のすみっこにある、
ちいさな大道具の制作会社でまいにち忙しく働いていて。
遅くまで食事もせずにがんばって、
深夜にタクシーで帰ることも、よくあった。
昔より女性が増えたといっても、
こういうギョーカイはまだまだ男社会で、
同年代の女友達が新作のブランドバッグをぶらさげて
銀座で合コンなんかをしているころわたしは、
すっぴんで、きたないツナギのような服を着て
何かに負けたくなくて、がんばっていた。
クリスマスのその日、東京は雨だった。
恋人もいなくて、独り暮らしの
ちいさなアパートに帰るだけの
クリスマスだったけれど、
時計を見たらもうイブも終電も終わっていて。
タクシーに乗ったのは、深夜2時を過ぎていた。
運転手さんに自宅を告げて、
つぎからつぎへと雨のつたう窓ガラスを見ていたら、
なぜだか急に泣けてきたんだった。
鼻の奥がツンとして、街のネオンがゆがんで、
「あ、マズイ」って思ったときには、もう手遅れだった。
運転席に悟られてはいけない。
バックミラーをのぞかれたり、
なにか聞かれでもしたら死ぬかもしれないと思って、
ひとつも物音を立てず、涙もぬぐわず、
コートの袖口は、涙でどんどんぐずぐずになっていった。
仕事で叱られたこととか、
いいなと密かに思っていたひとに恋人がいたこととか、
へこむことは、それなりにあったけれど。
まいにちは楽しくすぎていた、はずだった。
なのに肌荒れはひどくなるいっぽうで、
ストレスなんて減らせないし、
今日はクリスマスで、わたしは去年の服を着て、
疲れた顔して、お酒も飲まずに
仕事先からたったひとりタクシーに
乗ってかえるという26才の現実を、
いったいどのへんを、がんばったと褒めてあげたらいいのか。
とにかく涙は、とめどなく流れ出た。
だから、たたきつけるようにふる雨音と、
すこしヤレた、うるさいワイパー音がありがたかった。
そのときついた、ラジオの音も。
仕事をしていた母は、きびしいひとだった。
いつかわたしに「女は職場で泣いちゃダメ。ぜったいに」と
言ったことがあったのを思い出した。
ここは、職場じゃないのだけれど。
涙は、家までもって帰れなかったよ。
わたしは、こころのとおくで母に謝りながら、
クリスマスに必ずつくってくれた
母のコンソメ野菜のスープが、
とてもとても飲みたくなったんだった。