西尾まりちゃんの牛深(牛深通信最終回-1)

西尾まりちゃんが熊本県天草市牛深町へ行ったのは
2012年の1月29日でした。
長男のロクちゃんを連れて。
次男は近所に住む自分の家族やご主人の家族が
よってたかって面倒をみるということになりました。

牛深では宿ではなく一軒家での暮らしです。
ロクちゃんは牛深の保育園に通い、
まりちゃんの撮影中はこれまた「映画プロジェクト」の人たちが
よってたかって面倒をみてくれることになりました。
まりちゃんはおよそ1ヶ月の間、撮影のためにやってきた旅行者ではなく
牛深の住民として暮らしていたわけです。

さて、そのまりちゃんの牛深はどんな町なのでしょうか。
海上交通を中心に考えると、牛深は九州の中心です。
地理的にも中心ですが、天然の良港に恵まれていたので
実際に海運の中心であり、
東は大阪、西は琉球まで行き来する船の中継点でした。
漁船の往来もさかんで
海が荒れると船は牛深に逃げ込み、お天気が回復するまで滞在するので
その船乗り目当ての遊郭が栄えました。
下の地図の赤い印が牛深です。
海を基準に考えると本当に九州の真ん中にありますね。

ところで、なぜ牛深が映画撮影の中心になったのでしょうか。
私は映画のことはわからないのですが
天草のことを調べてみると、天草ネイティブといえる人々は
天草の南、つまり牛深あたりにしかいないことがわかりました。
宗教戦争と百姓一揆と浪人の反乱がまとまったような島原の乱は
天草一帯も巻き込みました。
島原につづいて天草も蜂起しちゃったんです。
一揆軍に襲われた村では、切支丹として一揆に加わるか
さもなければ皆殺しだというようなことになりました。
略奪されて食べるものもない村にいるよりはということで
加わった人も多かったのではないかと思います。
加わっても戦死か処刑、断ったものや足手まといの老人や子供は
一揆軍に殺されたといいますから
島原の乱が終った後は無人の村々ができてしまったわけです。
一揆軍は最終的に3万7千人が原城に立て籠り、死んでいます。
島原の乱が終って後、無人になった村々には
全国から農民が集められ、移住させられました。
ここにおいて、ルーツを天草に持たない天草人が大勢出現したわけです。

ところがです。
牛深の住民はこの一揆に加わっていないのです。
決起もしていないようなのです。
決起していないから味方にならない住民を殺す必要もありません。
そうなんです。
島原の乱以前からの天草人が生き残っているのは
牛深とその周辺の、下島の南だけだったんですね。
だから、天草といえば牛深。
牛深が天草のルーツを守っているんです。
牛深が天草映画の中心になったのもうなづけます(なかやま)

* 牛深通信最終回は長くなりそうなので次号へ続きます。


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