上海のレベッカ
新型肺炎が流行した春、
ぼくは上海に出張でよく出かけた。
ある日新聞の片隅に小さく、
広州で謎の肺炎により数名の死者が出たことを伝える記事が出た。
数日後に肺炎は、香港から北京、上海に拡がっていた。
新型のウイルスが病原らしいというだけで、
その正体も感染経路もわからない。
とうぜん治療法も予防法もわからない。
ただ致死率だけが異常に高かった。
発生地の広州では本格的な流行の気配を見せていた。
全市で数十人が死んだと、ニュースは伝えていた。
ほんとうは数百人だという噂もあった。
その広州からスタッフが来て
狭い録音スタジオに一緒に入ったときには、
スタジオのアシスタントが霧吹きで黒酢を撒いていた。
黒いお酢、黒酢がウイルスに効くといわれていたのだ。
つんと鼻を刺すにおいがなんとも不気味だった。
納豆とキムチが効くという説もささやかれていた。
感染者の中にたまたま日本人と韓国人がいなかったというのが理由だった。
ウイルスは目に見えない。
さらにおそろしいのはすごい早さで遺伝子を変え変身し続けることだ。
人間はウイルスには勝てない。
人類史上いままで一度も勝ったことがない。
むしろウイルスに人間は生かされてきたとも言える。
なぜなら、もし人間がすべて殺されてしまったら、
宿主を失ったウイルスも生きていけなくなるから。
録音が終わって、ホテルに戻るという仲間と別れて、
ぼくは夜の街に出た。
呉江(ウージャン)路の安食堂で一人でメシを食べて、
人混みの中をバーに向ってぶらぶらと歩いた。
誰かに見られているような気がした。
フーシン・コンユエン、復興公園は、昼間はふつうの公園だが、
夜は別の顔を見せる。
木立の黒い陰に隠れた小屋の中が夜はバーになった。
店内はドラムとベースの音が一晩中鳴って、
若者たちが夜通し飲んだり踊ったりしていた。
自称アーチストたち、金持ちの不良息子や娘、
外国人、外資系会社のエリート。
成長する上海の熱と渇きが感じられる場所だった。
この店のカウンターの隅で一人で酒を飲むのがぼくは好きだった。
レベッカに会ったのはその夜だった。
気がつくとぼくの隣に一人の女がいた。
ときどき金持ちの娘のふりをして怪しい商売の女が入ってくることがある。
バーテンの男がちらちら警戒するような目を投げてきた。
女はレベッカと名乗った。
眼の色が少し青みがかっていて、ほかの中国人とは違う感じがした。
言葉をかわすうち、女は金持ちの娘でも娼婦でもないことがわかった。
それよりももっと危険な存在の何か、という気がした。
「この人たち消えてしまえばいいのに、って思うことはない?」
とレベッカは言った。
青い眼の中にときおり邪悪な光が宿った。
危険な毒のようなものがすっとぼくの心の中に入り込んできて、
体を乗っ取られてしまうような気がした。
「そうだね」
とぼくは言っていた。
バーテンがこっちを見ていた。
彼女がぼくの手を握ったとき、とつぜん入り口の扉が開いて、
黒い服の男たちが飛び込んできた。
レベッカの眼にちょっとだけ恐怖の表情が現れた。
彼女はぼくの手を放してあとずさった。
「あんたは生かしてあげる」
そう言ったような気がした。ひらりと翻って人の中に消えていった。
あとから黒い一団が追いかけていった。
つんと鼻を刺すにおいがした。
我に返ると、
自分の手の中に何か固い石のようなものが握らされていることに
気がついた。
おそるおそる手を開いてみた。
青い、美しい石だった。
ラピスラズリだ。
店を出て、石を握りしめて、
ぼくは熱に浮かされたようにふらふらと歩いた。
レベッカの姿を探したけれど、
上海の街にかき消えたように、もうどこにもなかった。
そしてほんとうの地獄が始まったのだ。
ウイルスは、ぼくの仲間を殺し、上海の三分の一の人を殺し、
中国全土で数百万の命を奪って、世界中に拡散した。
何億もの人間を殺して、殺しつくしてから、やっと牙をおさめた。
閉ざされていた日本への航空路が再開された。
騒がしさをとりもどしはじめた空港のチェックインカウンターで、
ぼくはポケットの中からパスポートとチケットを取り出した。
青い石、ラピスラズリがいっしょに転がり出た。
搭乗手続きをする地上係員の手がとまった。
指で石をつまみ、彼女は、ぼくを見た。
その眼に青いラピスラズリがあった。
出演者情報:遠藤守哉 青二プロダクション http://www.aoni.co.jp/