お伽
母が私の胸の裡(うち)に、
今もヒヤリと遺していったものは、
王子様、という存在だった。
いつか私を迎えに来る、それらしきなにか。
幼い頃、
私にとって夜は鍵穴のような存在だった。
穴のむこうに広がる
薄墨(うすずみ)色の寝惚(ねぼ)けた闇のようなものと
その穴から、
こちら側にいる私をのぞき込む誰かの視線。
その眼差しに慄(おののい)いていたのか。
それとも、
別の何かを感じていたのか。
目を固く瞑(つむ)れば瞑るほど、
その鍵穴が
私の中のあちらこちらの隙間に拡がっていく。
そうなると、
母がつくってくれる
ぬるめのホットミルクを
どんなにいっしょうけんめいに
こくこくと飲んでも、
眠ることができなかった。
そう思っていた。
そんな夜に
母が必ず私の枕元で語ってくれた
数え切れないほどのお伽話。
そこには、
いつも最後のほうで王子様が現れた。
どんなに不条理で
辻褄が合わない話の筋でも
必ずそれは登場し、
すべてを丸く収めた。
私を見つめる鍵穴のせいで
固く凍った幼い私の胸の裡も
母の甘い声に乗って登場する
王子様によって
瞬く間に溶けていき、
蕩(とろ)けるように眠りにつけた。
そして、彼が、王子様が、
翌日の光り輝く朝へと
深い眠りと共に私を連れて行ってくれる。
と、思い込んでいた。
朝まで王子様と過ごした私は、
幸せな気分でベッドから抜けだし、
母のいるキッチンへ向かった。
そこで私は、
いつも同じ光景を目にした。
ダイニングテーブルの片隅で
背中を丸めて朝食の支度を調える母は、
幼い私の目にも
明らかに深く憔悴しているように見えた。
今、思えば、
私以上に眠れなかったのは
母のほうだったのではないだろうか。
眠れない私のためのお伽話。
それは、
寝室にいる父の相手をすることが
適(かな)わなかった母の、
偽りの「伽」だったのかもしれない。
いけ好かない
ストレートパートの口髭を生やし、
いつも机に向かって
ペンを走らせていた父のような男。
その指先から生み堕とされた
手袋をはめたネズミで
世界中を魅了してしまった父のよう男。
彼もまた、
王子様の存在とその万能を信じ続けた
裸の王だったのではないか。と、今は思う。
王子様を期待し、
自ら眠れない夜を求め彷徨(さまよ)った幼き日々。
私のベッドと並んであった
お揃いのステンシルで型染めされた
もうひとつのベッドには、
ぐっすりと眠る姉がいた。
いつもは背中を向けて眠る彼女が
眠れない私の方に向きなおりながら、
そっとふわり呟く。
「王子様なんて、
いないんだからね…」
お伽話がはじまる前、
母が私たちの閨(ねや)にやって来る寸でのところで
私を
このあとはじまる母の呪文から解き放つために
あらかじめ用意され、
私の胸の裡にまぶされることば。
ありのままに生きる姉の視線は、
いつも私を自由にしてくれたように思う。
私にまぶされるそのことばと
姉という存在がまさに鍵穴だった。
姉が、ことばが、
幼い私の中に
深く静かに拡がってゆく。
しかも、
それは冷たくなどなかったのだ。
とてもとても温かなものだったのだ。
私の胸の裡を凍らせることなどありえなかったのだ。
今、私の王子様は
自らからの冷たさのせいで結晶した
厚い厚い氷の中に閉じ込められたまま、
ピクリとも動きはしない。
母は、
ライトアップされた居丈高なお城の中で、
王子様と共にきっと眠ったままだろう。
姉と私は、
浦安に聳(そび)え立つ
あのお城には、
未だ行ったことがない。