川
父が骨になるのを待っている間
空を見ていた。
空を見ているのに
海のことを思い出した。
青かったからか。
父と海へ行った時のことだ。
それがいくつの時のことだったのかは思い出せない。
父が僕の手を引いていた記憶があるから
まだ小さかったはずだ。
波打ち際まで歩き、そこにしゃがみ込んで
寄せる波にちょん、と指先をつけた父を見て、
僕も同じことをした。
父は海水のついた指をちょいと舐めた。
僕も舐めた。
しょっぱい、と僕が言うと
この味、何かに似てないか? と父が聞いた。
答えがわからない僕に、
ヒント。お前の身体からも、ときどき流れ出てるものだよ、と
父が言うのを聞いて、答えがわかった。
涙。
そう僕が答えると、
そう、涙だ、海の水はぜんぶ涙なんだ、
海は川からやってくる水が流れ込んでできている、
そりゃもうたくさんの川が、
世界中のいろんなところから流れ込んでるんだ
その川のひとつひとつを、どんどんどんどん、
上の方へ上の方へと登っていくと
やがて川は細く、細くなっていく。
どんなに大きな川でも、最初は細い1本の水の筋なんだ、
じゃあその水の筋はどこから出てるのかっていうと、
川の始まる場所に座って泣いている
女の人の目から出てるんだな、
毎日毎日、いっぱいいっぱい、ずっとずっと泣き続けている
女の人の目から流れた涙なんだ、
涙の筋なんだよ、
その細い涙の筋が流れて流れて、いつしか大きな川になって
また流れて集まって、それがまた流れ込んで
やがて海になってるわけだ
海がこうしてここにあるってことは
川も流れ続けているってことだから
今もずっとその女の人は泣き続けているんだろうな、
そして海の水はずっとしょっぱいままなんだろうな、
一度も息を継ぐことすらなく、
そこまで一気に喋った父は、急に黙り込んで海を見た。
それまで聞こえていなかった波の音が
僕の耳に飛び込んで来た。
でもそれはおかしいよ、
海へ流れる、その途中の
川の水はしょっぱくないもの、
女の人が泣いているというのはおかしいよ、
そう言おうとして父の方を見て
僕はそれを口に出すのを止めた。
じっと海を見ている父の横顔から
今の彼にとって
そんなことはどうでもいいことなんだということが
子供の僕にも伝わったからだ。
それは、何の説明も、推測も必要としない
必要十分な伝わり方だった。
そしてその時初めて、僕は気づいたのだった。
今日の海に、母が来ていないということに。
父が骨になるのを待っている間
空を見ている。
空を見ているのに
海のことを思っている。
父も母もいない、海のことを。
出演者情報:地曵豪 http://www.gojibiki.jp/