幻の炎
テーブルの上で小さな燭台の火が揺れている。
店には雄一たちの他に、客は誰もいなかった。
「ようやく連絡が取れたと思ったら、この店だもん。びっくりしちゃった」
咲枝は屈託なくえくぼを見せる。
自分の妻なのに、雄一はどんな顔で向き合えばいいのかわからなかった。
「ひとつ聞いていい?」
「ん?」
「なんでそんな派手な服を着て来たの?」
咲枝は赤に白いラインの入った鮮やかなワンピースを着ていた。
「え、だって可愛いから。好きでしょ、こういうの」
雄一は瞬時に苛立ちを覚え、思わず語気を強めた。
「あのなあ、嫌みかよ。旦那が荷物を持って出ていき、
もう三カ月も連絡がありません。
急に話があるから、と初めて出会った店に呼び出しました。
これでさ、何を話すと思ったの?」
咲枝は黙っている。
「どうしてそうなんだよ、そもそも勝手なのは俺なんだから、
怒ったり、問いつめたりしたって」
遮るように咲枝はつぶやいた。
「最後・・・」
「え?」
「最後かもって思って、着てきた」
咲枝と付き合いだして一年半で結婚を持ち出されたとき、雄一は即座に断った。
好き嫌いではなかった。不完全な状態のまま型に組み込まれ、
足下だけが固まっていくことが想像できなかった。
咲枝の「そのふわふわした感じ、二人ならはやく抜け出せるかもよ」
という一言が雄一を翻意させた。逃げ道を探してもいた。
そうして、二人は式も挙げず、周囲にも殆ど知らせることもなく、
紙とボールペンと判子だけで夫婦になった。
「・・・別れない」
「え?」
「私、別れないよ」
「やめろよ、そういうの。なんかさ、怖いよ。
これからどうする?定職についていない夫。
それを支える妻、そんなありがちな構図が美しいのはせいぜい20代までだろ。
第一、さっきこれで最後かもしれないって自分で言ったじゃないか」
「でも、別れられないもん」
この感じだ、と雄一は思った。目の前にいる、触れ合ってもいる、
だが、現実感が無くなっていく。いつしか雄一は目の前にいる咲枝を、
妻でも、女でもない得体のしれない生き物のように感じ始めていた。
二年をかけてお互い違う何かに変わってしまったのだ。
「終わ・・・」
雄一の口が、そうひらきかけたとき、何かが顔に投げつけられた。
呆気にとられる雄一を置いて、咲枝は店の外に弾けるように飛び出した。
カツンッ、カツンッ、カツンッ・・・
階段を降りる聞き慣れたせっかちな足音が遠ざかり、
手元には白い封筒が残された。ひらくと、離婚届が入っていた。
咲枝の文字は薄く角張っていた。こんな字だったかな、と思った。
いつしか燭台の炎は消えていた。
よく見ると、それは紙でつくられた炎がランプの灯で揺れていただけだった。
区役所に向かうバスの中で、雄一は封筒をひらいた。
雄一と咲枝の名前が並んでいる。「離婚」という文字がなければ、
仲良くそこに座っているようにも見える。
窓の外は、赤や黄色の大小の風船をもつ親子連れが目に付いた。
きっと何かのイベントがあるのだろう。
ふと、咲枝の旧姓欄の名前が松岡のままであることに
気づいた。しまった。たしかここは本来咲枝の旧姓である高田
が入るのではなかったか。
これが書き損じの場合、どうなるのだろう。まさかもう一度書いてもらう?
雄一はだんだん腹がたってきた。それは咲枝に対してというよりは、
休日のバスの中でこんなことを考えている自分に対してだった。
「松岡さん、松岡さーん」
老齢の係員が大きな声で雄一を呼び出した。
「松岡さん、大変申し上げにくいのですが」
「何か・・・」
「離婚届は無効になります」
目の前が真っ暗になった、またやり直しか。
「あ、それはその書き損じが・・・?」
「いえ、違います。松岡さんは、結婚されてないんです」
雄一は一瞬、その言葉の意味がわからなかった。
結婚・・・していない・・・?
「この二年前の日付に、婚姻届が出された記録はありませんでした。
ですので戸籍上、奥さんとはご夫婦ではありません。
結婚されていない以上、離婚もできないんです。
失礼ですが今まで、住民票や謄本をとられたことはなかったのでしょうか」
思い当る節はあった。すべて咲枝に任せていた。保険も、手続きも。
蒼白の雄一に、係員は付け加えた。
「三年たてば、事実婚という考えも出てくるのですが、それは民法上の・・・」
その言葉を言い終わる前に、雄一は窓口を離れていた。
陽が落ち、赤く染まった道を雄一は歩いていた。
ひんやりしたアパートの階段を登る。カン、カン、カン・・・。
見慣れたドアはそのままだったが、人の気配はなく、
取り外された表札の白い跡が目に痛かった。
咲枝とかわした会話が脳裏をよぎった。
「私、明日一人で出してくるよ。婚姻届」
「え、いいよ。二人で日を決めて出しに行こうよ」
「日っていつ?」
「え?」
「雄君みてるとね、その気はあるんだけど、足が動かないんだろうなって思う。
ほら、よく子どもがエスカレーターから降りる最後の一歩が出なくて
戸惑ってるときあるでしょ、あんな感じ」
「俺はガキかよ」
「男の人の方があるんじゃないかって。どうしても最後の一歩が出ないこと。
紙一枚のことなのにね。出してくるから家で待ってて。
帰ってきたら、お帰り、奥さん、って出迎えて」
別れられない、当たり前だ。一緒になってなかったんだから。
なぜ届けを出さなかった。どんな気持ちで毎日俺と過ごしてたんだ。
ただ、それを聞きたかった。
あったはずの二年間は幻のように消えた。咲枝も消えた。
あの夜、自分が吹き消したのだ。
玄関の前にしゃがみこんだ。動けなかった。
せめて、あのせっかちな階段の音が聞こえないかと、耳をすませてみたが、
夕闇の住宅街を切り裂く風だけが、雄一の肩先を通りすぎていった。
出演者情報:石飛幸治 http://www.studio-life.com スタジオライフ