勝浦雅彦 2016年5月1日

katuura1605

貝殻から

    ストーリー 勝浦雅彦
      出演 西尾まり

16歳になったある日、私は貝殻から出た。
そしてそれなりの決意をもって清廉潔白に生きていくことを決めたのだ。

きっかけは彼氏の、
いや彼氏と呼ぶにはややこしい感情が渦巻きすぎていた込山が、
文化祭の打ち上げを終えた帰り、
私を五反田のラブホテルに連れ込もうとしたことにある。

入り口の前で込山が私の腕をありったけの力で引っ張って連れ込もうとしたときに、
ああ、こいつの全力はこんなもんかと思い、
死んだ祖父に習った技で
(変わった人で厚木の自衛隊で護身術の講習をたまに受けていた)
腕をひねり返したら、「キャンキャン」という
犬の悲鳴とほぼ同音域の叫び声をあげて、ガードレールによろけて転げた。

それがあまりにゆっくりあざやかに見えたので、
あ、ほんとうにドラマみたいに必殺技ってスローモーションになるんだ、と
私は思った。

ちょっと上気しながら、黄色く煤けた公営住宅に小走りで帰り、
リビングでマルボロを吸っていた母に、
「アッタマきた!」
と私は叫んだのである。

思いつく限り込山の悪口を並べる私を、ニヤニヤ見つめながら母は
「その子と、あんた、悪くない組みあわせだと思うよ」
と、火の付いたタバコの灰皿に、ウーロン茶をかけながら言った。

「何でお似合い?」
「その人を語ってる表情で、まあわかるもんよ」
と、ぽんと私の肩に手を置き、

「あたしと口きかないキャンペーン、やめたんだ?」
と言った。私はしまったと思った。母と会話をするのは、3か月ぶりだった。

「寿司が来る時間だから、会いたくなきゃ部屋行ってな」

「寿司」とは出前のことではない、母の恋人のことである。
いつも寿司をお土産に持って家にくるので、そういうあだ名になった。
最初は銀座の有名な寿司屋の折り詰を持ってきたが、
次からだんだんランクが落ちて、半年たった今は回転ずしの
自分でぎゅうぎゅう詰める方式の箱を持ってくる。
来るのはきまって土曜日の夜と決まっていた。
名字はタカハシさんだった。名前はすぐ忘れた。もう50歳くらいに見えた。

ジャージに着替えると込山から、メールが来た。
団地のすぐそばの公園で待っている、という。
今出かけたら、寿司を避ける意思表示のようだが、構わず私はドアを開けた。

公園の奥まった小高い丘のベンチに、
込山はしおらしい顔で座っていた。よく見ると東欧種の鼻の広がった犬に似ている。
「さっきはごめん。やっぱり五反田ってのはムードが・・・」
「そういうことじゃない」
私は遮った。
「込山は潔くなかった」
「なんだよ、それ」
「世界には73億人がいて、日本には1億2千万人がいるわけ。
その中で知り合ったあたしたちが、
あの日五反田でそういうことをすることに、
あなたは何の必然性も用意してくれなかった」
「そんな難しいこと・・・」
「面倒でしょ?でも、あんたも面倒な女を好きになった面倒さを受け入れて、
イチからやり直しなさい」
気落ちした様子の込山に、少し優しい口調で私はささやいた。
「でも、おかげでちょっとよくなった事もある、ありがとう」
「え、それはどういう・・・」
「さ、今日は帰って。ごめん、ここ、暗さといい、人気のなさといい、
ムードばっちりの環境だけど、キスとかしないから。そういう気分じゃないから」

とぼとぼ帰っていく込山を見送ったあと、しばらくベンチに佇んでいた。
と、遠くに小さな赤い灯がみえた。徐々に近づいてくる。
それが、母が吸う煙草の火だと気づいたとき、
私は全身の緊張がとけていく感覚を味わった。

暗い海の向こうで、灯台の火を見つけた船乗りはきっとそれを希望と呼んだだろう。
希望は私の隣にやってきた。

「よく来たね、昔はここ。じいちゃんが生きてるときは」
「うん」
「彼氏は?」
私は、彼氏じゃないと言おうとしてもうどうでもよくなって、
「帰った」とだけ言った。
「隣いい?」
「いいよ」
母はベンチに座ると、あーっとため息を漏らした。
「座っちゃいけないベンチってあるんだよねえ。
こっちが空いててさあどうぞ、って言ったって、
あっちは別の誰かの隣に座ってたりさ」

私はなぜ母はここにいるんだろう、と思った。
そうか、寿司は来なかったか。
そして、あのぎゅうぎゅうな回転寿司の折詰も、きっともう来ない。

いったん手に持ったタバコに火をつけるのを留めて、
「クソッ」と母はつぶやいた。
それでも母はきれいだった。
多分、この人はいつか剥がれ落ちてしまう儚いものをまき散らしながらでないと
前に進めないのだ。

「あんたさ、大学行きたいっていってたっけ?」
「そんな話、したことまだないでしょ」
「口きかなかったからよ。
流れ作業みたいにあたしの娘が、ガッコンガッコンベルトを運ばれてくのは
気持ち悪いと思ってたけど、
好きにしなよ。別に水商売したってかまやしないんだからさ」
「その年で?いくつよ」
「この年だからよ。世間には同情したくてうずうずしてる人たちが
いっぱいいるからね。
本当はたいして差なんてないんだよ。分かり合えないのは、
もっと高いビルの展望台のようなところにいて、人が虫けらみたいに見えて、
はじめて無責任な判断をくだせるやつら。
勇気ある決断は、弱い人間にしかできないってことをわかろうともしない人たち。
でもあたしたちのためなら、喜んでそいつらに同情されるよ。そのほうが健全だもの」

母と私はいつしか、手を握り合っていた。
小さな頃から冷たいと記憶していたその手の甲は驚くほど熱かった。
怒っているのだ、きっと自分自身に。
そのエネルギーを必死に体全体で受け止めようとしている。
ふと、世界のありとあらゆる不自由さ、理不尽さ、不条理を、
包み込んで生きていくことが、
私の望む潔さなのではないか、と思った。
ベンチの周りをブラケットの灯が照らしていた。私たちは漂っていたが、
不安ではなかった。

16歳になったある日私は、貝殻から出た。
そしてそれなりの決意をもって清廉潔白に生きていくことを決めたのだ。母のように。

出演者情報:西尾まり 30-5423-5904 シスカンパニー


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