田 崎
土曜日の昼。
客のいないうどん屋の「丸八」に、2人の男が入ってくる。
どちらも年格好は50前後に見える。
片方の男は、トレーナーにデニム。
片方は、グレイのスーツ。
2人はカウンターに座る。
「なんか食うか」とスーツの男がトレーナーの男に声をかける。
トレーナーは、答えず、メニューの書かれたシートを
表、裏、表、裏とただ眺める。
「冷やし肉うどん」とスーツの男が、店主にいう。
「すいません。冷やしは夏だけなんですわ」と店主がこたえる。
「ふうん」とスーツは手元のメニューを眺め「ほな、冷やしてんぷら」
「そやから、冷やしは夏だけなんですわ」
店主が、さっきよりやや大きな声で答える。
「おい。冷やしは夏だけらしいぞ」とスーツがトレーナーに言う。
「メニューには書いてあるのに」
「ほな、なにが食えんねん」とトレーナーが店主のほうに目をむけて、
口を開いた。
「おい」
「冷やし、」店主がこたえる。「以外、でしたら」
「田崎はいつも、なに頼むねん」
「はい?」
「田崎はよう来るねやろ」
「おたくさんら、田崎さんのお知り合いでっか」
スーツの男はそれには答えず、言葉を繰り返す。
「田崎はよう来るねやろ」
「そうですな」
「どれくらい来よんねん。毎日か」
「…いや、そこまででも」
「来たら、なに頼む」
「まあ…」店主はちらとガラスの引き戸越しに店の外を見て言う。
「きつねが多いですな」
「ほな、きつねや」とスーツが言い、トレーナーの男に声をかける。
「おまえもそれでええか」
トレーナーはうなずく。
「きつね」とスーツが言う。
「へえ。きつねお2つで」
「いや。20や」
「はい?」
「きつね、20人前」
「…なんぞご冗談ですか」
「冗談やないがな。きつねうどんを20杯つくってくれ、と言うとんねや」
「ぜんぶ、食べなはるんで」
「そや」
店主がスーツを見る。スーツが正面から見返す。
数秒の間のあと、店主はなにもいわずうどんの準備を始める。
スーツは、スマホを取り出して、ゲームをし始める。
トレーナーはズボンのポケットをまさぐり、
めのう柄の丸いボタンを一つ取り出すと、それを口の中に入れた。
かろ、かろ。
と、口の中でボタンを転がす音がうどん屋に響く。
スーツは、ちらとそちらを見るだけでまたスマホの画面に視線を落とす。
「おっさん、この店は長いんかいな」とトレーナーが、口をひらく。
「はい?」
「何年やっとんねん。この店は」
店主は、うどん玉を茹でる釜から視線を上げずに答える。「32年ですわ」
「20人前もいっぺんに注文がでたことあるか?この店は」
「なんですか」
「20人前もいっぺんに注文がでたことなんて、32年で初めてやろ」
トレーナーが、店内を見渡し、にやりと口元をゆがめる。
店主は、なにも答えず、湯の中のうどんを箸で泳がせる。
かろ、かろ。
とトレーナーが口の中でボタンを転がす。
「田崎は、何時ころ来んねん」スーツが尋ねる。
「なんです」
「田崎や。毎日ここに来よるんやろ」
店主は釜から箸を上げて、答える。「まあ、いつもは1時頃ですな」
「いまが12時42分」スーツが腕時計を見ながら言う。
「ほな、あと18分か」
「ただの目安ですがな」店主が言う。
「それに、いつも来るからいうて、今日も来るとは限りまへんがな」
「ほう」スーツが、驚いたという顔をする。
「おい、聞いたか。ここのおっさんは、なかなか論理的やで」
トレーナーははうなずき、スーツが続ける。
「きっと大学出やな。学がある」
「論理的やな」トレーナーがつぶやく。
「むかつくくらい論理的や」
「…堪忍しとくんなはれ」
湯気にまかれながらつぶやく店主の額に汗が光る。
「出してもよろしいんですか」と店主が訊く。
「なに?」スーツが訊き返す。
「うどんでっけど」
「ああ、だしてくれ。だしてくれ。ここに並べてくれ」
カウンターの上に、まず5つ、きつねうどんの丼がならんだ。
つづいてもう5つ。
10個ならべたところで、店主はじっと立ちつくす。
「おい」とスーツの男が声を出す。「だいぶ足らんで」
「いっぺんには出来へんのだす」と店主が答える。「釜の大きさが、
10が限界なんですわ」
「やっぱりな」トレーナーの男が、にやにやと笑って言う。
「20人も客が来たことないねや」かろ。かろ。「しょぼい店やからな」
口の中で弄んでいたボタンを、ぷ、とトレーナーが吐き出す。
ボタンは、空中でくるくると回り、
一杯のきつねうどんの中にぽしゃりと落ちる。
「あと、10や」スーツが店主の目を見ながら言う。
「つくってる間に田崎も来よるやろ」
「おたくさんら…田崎はんに何の用事ですねん」
「用事?」スーツが答える。「一緒にうどん食おう思てるだけや」
「面倒は困りまんねん」店主の声が少し震える。
「揉め事は他所でしとくはなれ」
「面倒なんか起こさんがな」
トレーナーが、ズボンのポケットから、今度は黒いボタンを取り出し、
また口に含んだ。
「きつねうどん、仲良う食べるだけや」
「あいすまんけど、帰っとくなはれ」店主が声を上げる。
「お代はよろしいでっさかい」
店主は背をむける。
「きつね、あと、10」
スーツの声に、店主は答えない。
数十秒が過ぎる。
スーツの男が右手をカウンターの上にのせ、横に払う。
丼の一つがカウンターから滑り落ち、派手な音を立てて床の上で砕け散る。
店主の肩がびくりと動き、カウンターの方を振り向く。
「きつね、あと」スーツが店主の方へ乗り出して言う。「11」
店主はなにも言わず、うどんの玉を冷蔵庫から取り出す。
床に飛び散ったうどんからあがる湯気が、すっかり小さくなる。
トレーナーの男が、ぷ、と再びボタンを吐き出す。
そのボタンが、さっきとは別のうどんの丼に落ちる。
しぶきが、カウンターを濡らす。
柱にぶらさがった時計が、もうすこしで1時を指す。
出演者情報:遠藤守哉(フリー)