9月の芋虫
中原中吉( なかきち) はかなりの老人であ
るが機嫌はすこぶる良い。なぜなら仕事に行
かなくなったかわりに毎日よく歩いているか
ら、と人には説明している。きょうもキチ外
( キチソト) 公園のまわりを老人の足取りで
ヨボヨボ歩いていた。
大きなスズカケノキの枝葉が歩道に低く垂
れている下を歩いていると足元を鮮やかな草
色の、薄皮がはちきれんばかりの芋虫が、歩
道を横断すべく勇んで這っていた。中吉は地
面に近い小男だからよく観察できるのだが、
それは顔の模様のある芋虫で大きさは1 5 セ
ンチほどもある。そうしてツノをたてて中吉
を威嚇する。
九月のこんな時期まで芋虫でいつづけた結
果、芋虫としての美学が高まりすぎてチョウ
チョに変身できなくなるものが毎年でると聞
く。緑便の大きさでもある芋虫にわずかでも
触れないように中吉はおおきく迂回して避け
た。柔らかいものを踏んだときの「あっ」と
いう感触や、靴底に汁が付着するような恐ろ
しい関わりを恐れた。
しかしおおいにのろい芋虫が、この散歩者
と自転車の多い歩道を横断しきるのは不可能
と思えた。かれが無事渡り終えるかを観察し
とおす勇気はとてもない。いっそこの場で水
袋の可憐な身体を一気呵成に踏みつぶしたい
誘惑に駆られるのは、希望を持つ苦痛から逃
れるためか。
それならばわが両手でみずみずしい芋虫を
掬いあげ、かれの目指す道路脇の植え込みの
根方にそっと置く方法を選ぶべきと想像する
が、老いて堕落した中吉の手指は芋虫の湿っ
た皮膚の感触を1 ミリたりとも受け容れず
気味悪がるのだ。それに植え込みの根方に置
いたとて、いつなんどきまた歩道を引き返さ
ぬとも、また車道にさえ乗り出さぬとも限ら
ぬ。であれば完全な解決はいっさいの想像を
閉じること、つまりやっぱり殺すしかないで
はないか。
中原中吉はとりあえず逃げるが勝ちとばか
り老人得意のヨイヨイ走り( ばしり) で犯罪
現場に居合わす災難から逃げた。ヨイヨイ走
りしながらヒマラヤ杉の角をめがけて走った。
そこを曲がれば振り返っても現場はみえない。
みえなければ無いことになる‥ 。
するとふいに後ろから黒人ランナーがきて
追い抜いていった。中吉はとっさに靴底を盗
みみようとしたがたちまち視界を塞がれた。
というのはつぎなるランナーたちが続々やっ
てきたから。日本人たちがきた。老人たちが
きた。いちいちの靴底をみとどけることはで
きない数、きた。車椅子もきた。がんばって、
がんばってー。それは公園一周市民マラソン
であった。
これでは芋虫の命はひとたまりもないだろ
う。中吉も集団に巻き込まれて動く歩道のよ
うに滑走したのだ。それなのにいつもみんな
みんなどこへ掻き消えるのか。気がつけば人
生のように一人ぼっちでヒマラヤ杉のふもと
にいる。
安心は安心だった。ヒマラヤ杉からすっか
り顔をだして元の歩道を指で遠眼鏡して覗か
ぬかぎりスズカケノキもみえない。安心した
ら中吉は思った、ああ、やっぱりおいらが踏
み殺すべきだったんだ。もどって芋虫のあわ
れな残り滓を見てあげるべきなんだ。こうな
ったらもう触ってもいいや!
中原中吉は高ぶった。それでなにをしたか
というとヒマラヤ杉に抱きついた。
出演者情報:大川泰樹(フリー) http://yasuki.seesaa.net/