ナグー
南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。
族長一家の召使が高らかに声を上げながら、村々をまわった。
—われらが偉大なる長(おさ)パパンギロ、
その愛娘、イ・ギギが、婿をとる齢(よわい)となった。
髪あくまで黒く、螺鈿のようなその瞳。どんな男も虜にしよう。
我こそはと思う者は、次の嵐の夜、東の砂浜に集うべし。
沖の鎌首岩まで泳ぎを競い、見事一番手をとった若者に、
イ・ギギは与えられるであろう。
鎌首岩とは、島の遥か沖、波間から蛇のように
にょきりと突き出した岩礁である。
イ・ギギに求婚を望む者は、
荒ぶる高波に揉まれながら岩礁までの数百メートルを泳ぎ切り、
自らの肉体の壮健ぶりを証明せねばならない。
そこで波に飲みくだされるようなら、
神からの寵愛がその程度だということ。
ならばそもそも高貴な血族に求愛する資格などない。
それが族長の意思であり、この島のならわしであった。
3日後、はげしい南風とたたきつける雨が島を襲う。
その夜、浜辺に、島中の美丈夫どもが集った。
たくましく、しなやかな筋肉の群れが砂浜を埋め、
月もない暗闇の中、すべらかな肌が雨をはじきながら、号令を待つ。
沖の波は、もはや椰子の木を遥かに上回る高さだったが、
生きて帰れるだろうか、などと不安がる者はその中にいなかった。
それほどまでに、イ・ギギ—
そして、彼女との結婚が約束する支配者一族としての暮らし—は
男たちにとって魅力的だったのである。
若者のうちの一人がある異変に気付き声をあげた。
—女だ。女がいる。
戸惑いのさざ波が、浜辺に広がる。
—なぜ、こんなところにいる。
ここにいるのはイ・ギギの婿になりたい男たちだ。
と言いながら、憐れなものでも見るかのような目つきをむけた若者に、
まだ年端もない娘は答えた。
—勝てば、わたしのものになる。
—なにが?
そう言いながら若者が、笑いながら娘の頬を撫で回した。
娘は、その手を娘は振り払い、じっと荒れ狂う海を見つめた。
その娘は、名をナグーといった。
母親どうしが幼馴染みだったことから、
イ・ギギとナグーは小さい頃から多くの時間を過ごした。
無二の親友といってよかった。初めて泳ぎを覚えたときも、
初めて鶏の喉を裂いたときも、二人は一緒だった。
イ・ギギの寝床でとりとめもないことを話しながら、
よく抱き合って眠りについた。
ナグーもイ・ギギも、その関係がいつまでも続くように思っていた。
だが、二人は成長し、イ・ギギの婿取りの時期となる。
イ・ギギは穢れを払うために、一族以外の者との接触を禁じられた。
ナグーはむしろイ・ギギが結婚によって穢されるように思えた。
あのつややかな肌を、男の無骨な手がまさぐるのは、
考えるだにおぞましかった。
ナグーは、イ・ギギのことが不憫でならなかった。
ナグーをつまみだそうとする若者達を制したのは、族長であった。
たしかに、この競い合いに女の参加は許されぬという断りは
なされていなかった。その娘の望むようにさせよ。
族長が火のついた薪を振るのを合図に、
若者たちは、黒い海の中へ我先にとなだれ込んでいった。
ナグーは、泳ぎの名手だった。
平時の海なら男に負けない自信は十分にあったものの、
嵐の、しかも夜の海は初めてだった。
どう、と波が砕ける衝撃が体を揺さぶった次の瞬間、
ナグーたちを取り囲む水の全てが一気に走り始め、
ナグーの体を猛烈な力で押し流した。
風に舞う木の葉のように、
おびただしい数の若者の体が水中を飛ばされてゆき、
海底から突き出した岩の群れに、叩きつけられていった。
何人かの頭が、地面に落ちた椰子の実のように、ぱかりと割れた。
砂浜では、イ・ギギが海を見つめていた。
自分の身を求めて群れ集まり、
波の中へと突進してった者達の誰ひとりの名も、イ・ギギは知らなかった。
ただ一人、ナグーのその名を除いては。
辛くも岩への衝突を避けたナグーは、遠回りをする策をとった。
鎌首岩の南側を大きく回り込めば、まだしも潮の流れは遅く感じられた。
進んでいるのかいないのかも判然としない中を、
果てもなく水をかく。ところへ、雲が切れ、月の光がさした。
ナグーの目に、月を背にした真っ黒な鎌首岩の輪郭が飛び込んできた。
岩礁の上にやっとのことで体を引きずり上げたナグーは、周りを見渡した。
一番乗りだ。
心臓が口から飛び出しそうだった。力が抜け、膝がくずれる。
放心状態の中で、ナグーは思った—イ・ギギはわたしのものだ。
たたきつける雨も、むしろ天の施す温かい愛撫のように感ぜられ、
ナグーは手足を伸ばした。
どれくらいの間そうしていたか…
ぜいぜいという荒い息づかいを聞いてナグーは我に返った。
見下ろすと、今しも、鎌首岩をこちらへ上ってくる男がいる。
さきほど、ナグーの頬を撫でまわした男だ。
男は、ナグーの姿を認めると、びくりと一瞬体を震わせ、
そのまま動かなかった。
—わたしが一番乗りだ。
ナグーがそう言って、男の顔をまっすぐに見つめ返した。
—腰抜け。
言葉を重ねて、ナグーが、不敵な笑みを漏らした。
そのとき、月がふたたび雲で翳った。
男は身をおどらせ、ナグーに覆いかぶさった。
ナグーの首に回された手に満身の力が込められ、
その力は、ナグーの抵抗と痙攣が止まるまで緩むことはなかった。
ナグーを殺した若者は、晴れてイ・ギギの婿となった。
婚礼の宴は七日七晩続き、
島の内外から祝いの使いと贈り物がひきもきらず押し寄せた。
花婿は、次々とやってくる使いに覚えたての慇懃な返答をしながら、
しごく上機嫌であった。
だが、イ・ギギの顔を覆う曇りが晴れることは、なかった。
初めて床をともにした夜、
婿は、族長の血族となりえた心の昂まりゆえか、
イ・ギギの体を組み敷きながら、あの嵐の夜のことを話し始めた。
—鎌首岩の上に、狂った女がいた。イ・ギギに執着していた。
あれは、おそかれはやかれ災いをもたらす。
だから、俺が始末した。イ・ギギのためだ。
—一番乗りはナグーだったのか?
男は身を離し、起き上がった。
そして、そうだ、と言うかわりにただ卑猥な笑いを浮かべた。
—ナグーは最後に、なんと言った?
—ナグーといったのか、あの娘は。名乗る暇も与えなかった。
あんな娘に言葉を吐く資格もない。こうした。
そう言って、男は、自らの喉を手の平で絞る仕草をした。
イ・ギギは身をおこし、寝台から出た。
そして、寝室の床に積み上げられた贈り物の山の中から、
隣島の族長がよこした青銅の剣を手にとった。
イ・ギギは飛ぶように男に近づき、
次の瞬間には、男の口に剣が突き込まれていた。
剣の切っ先は男の後頭部から肘の長さほども飛び出、そのまま壁を貫いた。
男は「あ」と声をあげたときそのままの顔で、絶命した。
切り落とされた舌が、勃起したままの陰茎でぴしゃりと跳ね、
床に落ちた。
その後、イ・ギギは、自らの住居にこもり、
島の者たちの前に姿を現わすことはなかった。
身の回りの世話をする使用人が漏らした話によれば、
額、手、足、背中、腹それぞれに、ナグーの名を…
婿選びの夜に命を落とした憐れな娘の名を、
刺青で刻んだということであった。
そしてイ・ギギは、新たな婿を迎えることはもとより、
一生言葉を発することなくその後の人生をおくった。
南回帰線のあたりにぽつりと浮かぶ、小さな島での話である。
出演者情報:遠藤守哉(フリー)