坂本和加 2020年4月12日「ウイスキー」

ウイスキー

   ストーリー 坂本和加
      出演 森一馬

死んでからの生き方について、
考えたことはあるだろうか。

あるバーで聞いた。
バーテンダーは店のマスターであり、
オープンは32才のとき。
いまは92才だから、60年ものあいだ
週に一度の休みを除いて毎日、
カウンターに立ち、酒をつくり続けてきた。

その男は、上村といった。いい酒飲みだった。
いつも店には前払いで10万を渡し、
なくなるとまた同じようにした。
たいていひとりで、カウンターで静かに本を開いた。
酒で乱れるようなことはなく、
マスターとは、ぽつりぽつりといろんな話をした。
苗字は違うが、父親は著名な医学者であり
編纂した医学書を店に持ち込むほど、誇りに思っていること。
自分は大手と言われる勤め先にいるが、
結婚もせず40を過ぎて、いまだ独り身だということ。
母は亡くなり兄弟もおらず、天涯孤独だということ。

上村は、珍しいウイスキーを好んだ。
ときどきそれらを見つけてきては店に持ち込み、
その日たまたま隣りに座ったような
一見(いちげん)の客にも、
気前よく酒を振る舞うような男だった。

エドラダワーの10年。
これに「1960年代の」がつくと
とたんに値は跳ね上がる。麦の黄金時代に生まれた酒。
いまは1本、80万のビンテージ。
長くバーテンダーをしているマスターでさえ、
いまだかつて飲んだことのないような、酒。
それをどうやって入手したのかを
自慢げに語るような男ではなかったが、
大枚をはたいて手に入れた酒には違いない。
「いつ、開ける」そんなやりとりが笑い話とともに交わされ。
ある日、上村はパタリと店に来なくなった。

それから30年近く、月日は流れた。
希少な高級級だ。そのまま店で保管していいものかと
マスターも何度か会社に電話したそうだが。
「そのような名前の者はおりません」。

特別なエドラダワーは、最初のうちは
カウンターからよく見える場所に置かれた。
上村を知る誰かに、たどり着きはしないかという期待を込めて。
マスターが、カウンターの客にさりげなく話をしやすいように。
同じ業種で、似たような仕事をしている人間は多いから。

けれど男は消えたまま。
生きていれば、もう70を超えている。
きっとこの世界に、彼はもういない。
マスターの推測にしか過ぎないけれど。ふつうそう思うだろう。
自死か病死か、その原因はわからない。
家族も子供もいない、とるに足らない平凡で孤独な男を
思い出すひとなどこの世界に誰ひとりいないことはわかっていた。
だから。このバーで「特別なエドラダワー」とともに
オーナーや客たちに、くり返し語られることを想像したのだと思う。
あとは上村の思惑通り。
彼は30年にわたり鮮やかに、ここにいた。

特別なエドラダワーは、いまもバーの片隅で。
未開封のまま、タバコのヤニで
包まれたフィルムを黄色くして。
消えた男の輪郭をつくるためにそこにある。

出演者情報:森一馬 ヘリンボーン所属 https://www.herringbone.co.jp/


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