パンとわたしとパンの沼
パン生地は 生意気だ
さっきまで粉と水だったくせに
こねて こんなにかわいくしたのは私なのに
あなたにちゃんと 扱えるのかしら
素敵なパンにできるのかしらと
今思えば パン生地がそんな風だった
思い通りにふくらまない
焼き上がりが 格好よくない
簡単そうにみえて ハードパンには
ほんとうに手を焼いた
焼き上がりまで4時間
うまくいったかどうかは
オーブンを開けるまでわからない
ハードパンは私をいろんな意味で苦しめた
しかし3年ほど経ったある日
美しいクープの切れ込みがパカーンとひらいた
売り物のような格好いいハードパンが焼けた
焼き上がりの瞬間だけ
聞くことができるという
天使の拍手は 喝采にきこえた
パンを焼くことは 自転車を漕ぐことと似ている
いちどできればできるようになる
コツがあるとするなら
何もしない が いちばんのコツ
それでは自転車を漕げない と思うだろう
でも大事なのは まさにそこだった
自転車を漕ぐのは
パンを焼く私ではなく 酵母たちだから
焼き上がりまでの4時間は 酵母の仕事
それをジャマしない ということ
むしろひとができることのほうが とても少ない
そして酵母は生きている
とてもデリケートに
水の温度 その日の気温 湿度
砂糖の量 塩のミネラル 粉の種類
これに酵母の気分をかけ合わせて
一期一会のおいしさが焼きあがる
むずかしく考えたらうまくいかない
だって毎日食べるものだから
でもさ だからなのかもね
パンを焼く人を パン職人って言うのは
出演者情報:西尾まり 03-5423-5904 シスカンパニー
録音:字引康太