「渇望」
ストーリー 蛭田瑞穂
出演 遠藤守哉
漱石の指が、白い原稿用紙の上で痙攣するように震えていた。
締切はとうに過ぎ、新聞社からの催促の電報が
机の上に無造作に置かれていた。
筆は一向に進まず、突如として襲い来る胃の痛みに、
ぐっと声を押し込めた。
「またか、この呪われた痛みめが」。
歯を食いしばり、力なく立ち上がると、
よろめきながら縁側へと歩を進めた。
障子を開けると、空はすでに茜色に染まり、
夕暮れの影が忍び寄っていた。
縁側に腰を下ろし、冷や汗を拭う。
深呼吸をし、痛みをやり過ごそうと試みた。
しかし庭に目をやると、紅葉した木々の鮮やかな赤色が
まるで己の胃の中を流れる血を連想させ、
再び痛みが意識を支配した。
漱石はゆっくりと瞼を閉じる。
苦痛から逃れようと、何か別の思考に没頭しようとした矢先、
不意にひとつの問いが脳裏を掠めた。
「読書をしながら食べるにふさわしい果物は何であろうか」。
なぜそのような問いが浮かんだのか、漱石自身にもわからない。
ともあれ痛みに耐えながら、その取るに足らぬ問いに心を委ねた。
まずは林檎か梨か。
小気味よい歯ごたえと口の中に広がる甘さを想像した。
しかし、ナイフで皮を剥く手間が甘美な想像を無情にも打ち消した。
そもそも読書をしながら食べるという命題にそぐわないではないか。
柿もまた然り。
その上、渋柿に当たる可能性を考えると躊躇は増すばかり。
ならば桃は如何か。
滴り落ちんばかりのみずみずしい果汁に心惹かれる。
しかし、その汁が本に飛散しはしないか。
大切な書物を汚すわけにはいかぬ。
蜜柑か。蜜柑があるではないか。
手で容易に剥け、房に包まれ、果汁が飛び散る心配もない。
その美味は言わずもがなである。
読書に最適な果物は蜜柑であると結論づけようとした刹那、
房に付く白い繊維の存在が彼の心を萎縮させた。
取り除く度に読書は中断される。
その煩わしさは、到底受け入れがたい。
思考が行き詰まりかけたその時、思い浮かんだのは葡萄だった。
そうだ、葡萄ではないか。
蜜柑の長所を兼ね備えつつ、その短所とは無縁である。
デラウェアなる小粒の新種を、
一粒ずつ口に運べば、決して読書の邪魔にはならぬ。
そう考えると、葡萄がもはや、
ながら喰いのために造形された食物とさえ思えた。
長年の探求がようやく実を結んだかのように、
漱石は満足げにうなずいた。
すると突如として、
その果物を今すぐに手に入れたいという衝動に駆られた。
足早に書斎へと戻り、机の引き出しから財布を取り出す。
財布の中身を見て、葡萄を買える額があることに安堵すると、
玄関へと向かい、草履を履き、勢いよく戸を開けた。
財布を握りしめ、晴れやかな表情で近所の八百屋へ歩いてゆく。
今や漱石の意識から、何もかもが遠い記憶のように薄れていった。
白い原稿用紙も、締切の重圧も、病の苦痛も、
全てが意識の後景へと押しやられていた。
心はただ葡萄への渇望で満ちていた。
出演者情報:遠藤守哉