助手席の男
助手席の男が、
運転席に座ることはない。
運転免許がないからだ。
家族とクルマで出かけるときも、
助手席に座り外の景色を眺めながら、
早く着かないかなと思っている。
助手席の男とは、そういう男なのである。
でも、ただ座っているだけではない。
助手席の男も一応それなりに心を忙しく動かしている。
助手席からいちばんよく見えるのは、
運転席に座る奥さんの横顔だ。
家族を無事に目的地まで届けるという責任感と緊張感が、
奥さんの目元と頬のあたりを引き締めている。
その表情を見て、助手席の男は、
自分にできることはとにかく眠らないことだと気を引き締める。
運転をかわってあげられない代わりに、ただひたすら起きている。
適度に運転席にむかって話題を振る。
後部座席で子どもたちが騒ぎ出したら、
対向車や追い越していくクルマのナンバープレートを見ながら、
足し算大会を開く。
車内が静かすぎて、奥さんが眠くならないように、
うるさすぎて気が散らないように、
明るく盛り上げるMC役を引き受ける。
なかなかたいへんだ。
でも、クルマを運転することに比べたらなんてことはない。
2年前、助手席の男がもっとも恐れていたことが起きた。
ある夜、小学2年生だった長男が、聞いてきた。
「なんでうちは、ママがクルマ運転するの?
友達の家は、パパが運転しているみたいなんだけど」
いつかくるに違いないと恐れていた質問だった。
助手席の男も、
子どもの頃は後部座席の少年だった。
後ろの席の左側に座り、運転する父親の横顔と、
助手席に座る母親のうなじを座席とヘッドレストの隙間から見ていた。
大学生になり、運転席の男になるチャンスはいくらでもあったが、
東京はクルマがなくても電車があるから不便はないという話を真に受け、
教習所に通うことを面倒くさがり、そのまま就職した。
もちろん働きながらでも免許を取りに行くことはできた。
でも、忙しさを理由に行かなかった。
子どもができたとき、
このままだと成長したとき恥ずかしい思いをさせることは分かっていた。
それでも、やっぱり行かなかった。
そうやって、助手席の男は、助手席の男になった。
春。クルマのなかも、日差しが厳しくなってくる。
奥さんはサングラスをかける。
当然である。
運転手が目を守ることは、家族を守るということなのだから。
助手席の男も、サングラスをかけたいと思う。
なぜなら、眩しいのだから。
でも、助手席の男がサングラスをしてもいいのだろうか。
ただかっこつけたいだけなのではないかと、
思われている気がしてならない。
だから、春の助手席の男は、強い日差しのなかで、
しかめ面をしていることが多い。
.
出演者情報:大川泰樹 03-3478-3780 MMP所属