気になる春。
粘度の低いほぼ液体のような鼻水が
右の鼻の奥からゆっくりとゆっくりと
垂れ出てくるのを感じる。
近所の喫茶店で
佐藤究の小説『テスカトリポカ』を読んでいた。
鼻水に意識を持っていかれそうになる。
スッと鼻をすすり、液体を鼻の奥へ戻す。
メキシコのカルテルに君臨した麻薬密売人の男が、
潜伏先のジャカルタで日本人の臓器ブローカーと出会い、
新たな臓器ビジネスのために日本の川崎へ向かう。
意識を目の前の小説に戻したときだった。
「馬事公苑って知ってるかしら?あそこ昔は雑木林だったのよ。
その隣に農大があるでしょ?あそこ昔は自衛隊があったの」
左の席におばあさん2人と30代くらいの男女がいる。
会話というよりさっきから1人のおばあさんが一方的に喋っている。
声が大きいので耳に入ってくる。きっと耳が遠いのだろう。
「すみません、ここら辺で」と、
30代くらいの男女が立ち上がる。
「ごめんなさいね。昔話ばかりで」
「あ、いえいえ…」と30代の男女は困ったような苦笑いの表情で去る。
このときおばあさん2人と30代くらいの男女の関係がわかる。
知り合い同士ではなく、
おばあさんが一方的に話しかけていたのだ。
「私たちもお会計しようかしらね」とおばあさん2人が店員を呼ぶ。
「お会計はレジでお願いします」と言われ、
声の大きなおばあさんがレジへ向かう。
席からレジは少し離れている。
それでもおばあさんの声が聞こえてくる。
「お会計、2人で割れるかしら」
「すみません、
それはできないのでおひとりさまが払っていただく形になります」
「じゃあ私が立て替えるから、1人だといくら?」
「3600円なので、
おひとりさま1800円になります。レシートに書いておきますね」
店員が親切にレシートに2人で割った金額の1800円を
ペンで書いているようだった。
おばあさんが支払いを済ませて席へ戻ってくる。
それからしばらくおばあさんたちはまた会話をしていた。
意識を小説へ戻す。
川崎で生まれ育った少年コシモが
ジャカルタから来た麻薬密売人の男に見いだされて、
犯罪に巻き込まれていく。
さらにページをめくろうとしたときだった。
「あれ?私がぜんぶお会計払ったのかしら?」
「あんたがぜんぶ払ったからレシートここにあるじゃない」
そうです。もうひとりのおばあさんが言うとおり、
さっきお会計していましたよ、と心の中で思う。
「え?そうだったかしら?店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんは店員へ聞きにいく。
その様子を目で追ってしまう。
おばあさんが「もうお会計していたみたい」と言い席に戻ってくる。
「ほら言ったじゃない。じゃあ1800円払うわね」
もうひとりのおばあさんが払おうとする。
「1800円?それ多くないかしら?900円でいいのよ」
先ほどお会計をしたおばあさんが答える。
いやいや、
900円ではないです、ひとり1800円ですよ、と心の中で思っていると、
「ほらレシートに3600円で、1人用の金額1800円って書いてるじゃない」
ともうひとりのおばあさんが言う。
そう!そうです!
ひとり1800円です!と僕は心の中で答える。
「そうかしら?ひとり1800円は多くないかしら?
きっと間違ってるのよ、店員さんに聞いてくるわね」
おばあさんはまた店員へ聞きにいく。
僕はまたその様子を目で追ってしまう。
店員は「3600円なので2人で割るとひとり1800円です」と答えている。
たぶんこの喫茶店にいるお客さん全員がおばあさんの一挙手一投足に注目していた。
おばあさんが席に戻ってくる。
「ぜんぶで1800円だったわよ、だからひとり900円」と大きな声で言う。
違う違う違う。
おばあさん、ひとり1800円です、と喫茶店の全員が思う。
向かえの席で仕事をしている男性もパソコンを打つ手を止めて見ている。
もうひとりのおばあさんが
「わたし1万円札しかないから、両替頼んでくるわね」と言うと、
さっき3600円を立て替えているおばあさんが
「いや、わたしが細かいのを持っているから、
わたしがあなたに900円払えばいいのよ」
と言う。
いやいやいやいや、
3600円払って、また900円払うのは払いすぎですよ、
喫茶店にいる全員が心の中で思う。
店員のほうを見る。
1800円と書いたのが余計な混乱を生んでしまって気まずそうにしている。
もうひとりのおばあさんが
「あんたが立て替えたのになんでまたあんたが払うのよ、
わたしが両替して払うから」と答える。
そうそうそうそう!
そのとおり!それで合っています!
喫茶店にいる全員が心の中で思う。
こうして3600円を立て替えたおばあさんは
1800円をもうひとりのおばあさんからちゃんともらって
「年取るとすぐ忘れちゃってダメね」などと笑いながら
無事にお店を出ていった。
はぁ、よかったぁ。
喫茶店にいる全員が顔を見合わせた。
ズッと鼻をすする。
口の中に少ししょっぱい味が広がったのをコーヒーで流し込む。
これはまだ僕が花粉症ボトックスをするまえの春の話。
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出演者情報:遠藤守哉(フリー)